鈴木一平+山本浩貴(いぬのせなか座)「無断と土」SFM2021.6【3】

本記事では、『S-Fマガジン』2021年6月号に掲載された鈴木一平+山本浩貴(いぬのせなか座)「無断と土」を紹介する。

3回に分載するうちの3回目(最終回)である。1回目はこちら。前回(2回目)はこちら

2回目までで、「抒情=怪談空間」をめぐる部分の読解を終えた。今回は、天皇制にかんする部分を読解する(第2節の続き)。最後に小説としての「無断と土」の評価を考える(第3節)。

目次

第1節 作中事実
第2節 口頭発表の議論
2.1 指針となる2つの疑問
2.2 抒情=怪談空間(Q1)
2.2.1 「抒情」と「擬空間」
2.2.2 怪談空間
2.2.3 抒情=怪談空間のダイアグラムとしての『WPS』

(ここから本記事)
2.3 天皇制(Q2)
2.3.1 天皇制と集団制作
2.3.2 天皇制のダイアグラムとしての『WPS』
2.4 おわりに
第3節 小説としての達成
3.1 口頭発表というスタイル
3.2 口頭発表を聞き取る外部
3.3 作者のコンテクスト
3.4 モデル、レイアウト、ダイアグラムによる思考
3.5 おわりに
(ここまで)

(Q2.1)天皇が「高性能な集団的制作者像」であるとはどういうことか。また「天皇制の奇形的発達」とはどのような事態か。

前回までで、〈喩〉の失敗という否定的契機を通じて、表現主体たちが同居し、互いに声が聴きとられるような「抒情=怪談空間」が構想される、というモデルについて述べてきた。そこでは詩を読むというテクスト上のプロセスが問題になっていたが、発表者にとってこのモデルは、もともとは人々が現実の経験を処理する仕方にかんするものであり、菅原はそうしたモデルを前提に詩を制作したとされる。

【引用8】怪談が現出させる空間は、国民規範への安易な統合を許さない多様に噴出する世界群を前にして各々の肉体がその内部で感じ取る恐怖という情動を、そのままに皆で具体として共有し、出来得る限り表現の場において加工・操作するための、極めて抽象的な(複数の表現形式を越境する)メディウムとなったのである。(110上/588)

「関東大震災」(109下/587)のような苛烈な出来事に見舞われ、〈喩〉が処理しきれない過剰な情報にさらされた人々は、とりわけそうした共同性をもつ空間を必要とし、怪談を語って共有した。その中には、朝鮮人差別を前提とする「国家単位での罪悪感と不気味さの代表としての朝鮮表象」(110上/587)なども含まれていたと発表者は言う。このように「複数の肉体」の間で共有され「個々人の私的な実話でありながら普遍的な構造を持つ」(112下/595)ようになった怪談を、菅原らは収集したのだった。

恐怖を「表現の場」に上げる際、「複数の表現形式を越境」すること(=アダプテーション)が必要となる。まずテクストは、〈喩〉の失敗を引き起こし、表現主体たちが擬似的に同居する「抒情=怪談空間」を立ち上げさせるという形で、読者の肉体において空間を発生させるのだった(ここで「擬似的」の語は「〈喩〉の力=擬似的遡行力」(125上/624、強調は引用者)からとった)。けれども表現主体たちが明示的に同居しうる空間は、別途「具体化」(103下/574)≒「物象化」(104上/575)≒「上演」(116上/604)されなければならないのだ。したがって、あくまでも私見にもとづく整理だが、「空間」の発生を2つの段階に区分することができるだろう。

  1. 〈喩〉の失敗という否定的契機を通じて、表現主体たちの肉体が擬似的に配置される「抒情=怪談空間」が、読者の肉体において構想される
  2. 表現主体たちが実際にその中に配され、声が聴き取られ、共同性が現実のものとなる具体的な空間が作られる

ここでいう「空間」の発生の第2段階を実現するために、菅原らは演劇という手段を用いた。そうした越境──言語表現から空間的な表現への移行を可能にするものが、戯曲におけるト書きである。だがト書きは単に演出家や俳優に対する指示にとどまらない役割を果たす。

【引用9】ト書きは戯曲において不可思議な機能を果たす。個々の発話者にも作者にも還元できない、テクストが置かれる場=怪談空間=劇空間=世界の論理と紐付いた指示書としての役割である。そこでは言語表現とそれが影響を与えるところの作品内世界の論理がゼロ距離で連動し、戯曲を読む者の肉体を圧迫する。かれらの肉体は戯曲内部における怪談証言者らの語りにとっての「〈死角〉空間」、知覚不能だが部分的には少なくとも所持しているため都度都度の表現の統合先ではあり得る余白として機能するとともに、物質としての空間座標と一定程度の科学的分解可能性を付与されるのである。(116下-117上/605-606)

ト書きは、台詞の発話者とも戯曲の作者とも異なる立場から空間を規定する。それは表現されるやただちに「世界の論理」を動かし、戯曲の読者の肉体に過剰な情報をもたらす。というところまではよいとして、意表をついてくるのが後半だろう。「かれらの肉体」──読者の肉体は、戯曲に登場する怪談証言者の語りにとって、その表現が統合される場(「〈死角〉空間」、「余白」)として機能するというのだ。これまでに見てきた部分との関連を確認しておくと、「知覚不能」は【引用3】における「視覚的には現前しない」に、「部分的には少なくとも所持している」は【引用6】における「自らの肉体の感覚器官と一定程度連携した形で」という記述に対応する。【引用3】や【引用6】は、読者の肉体から見て、おのれの外部に別の肉体を発見する、というときに使われるレトリックであったが、いま【引用9】では「怪談証言者」から見て「読者」が「表現が統合される場」となっている。「読者」はここで、発見されるべき他者の位置に置かれるのだ。作中の発話者と読者との間に、一方的ではない、相互関係が生じている。ともあれ、この発見が空間の発生の第1段階に、そして「物質としての空間座標」を「付与」される、というのが第2段階に相当するといえるだろう(「とともに」という並列表現に注意)。ここで言われていることが具体的に指しているのは、演出家や俳優が、戯曲を読み合わせることで、2つの段階──読むことと実際の空間化をつなげる媒体となる、というようなことだろう。

さらにここでは、作中人物である「怪談証言者らの語り」を読むことと「戯曲を読む者の肉体」をつなぐ、フィクションのレベルを横断するロジックが発動していることも見逃せない。戯曲の読者は、まさに前回見たような「「作品の内部に立ちながらそこで走る因果関係を外から語り駆動させる呪音としての声を、自らの肉体の傍らで手にしている」(124下/623)者となるのだ。前回、こうした制作者の肉体について、「作者でありながら同時にキャラクターでもある」と書いたが、この制作者は(ちょうど演出家や俳優が戯曲にとってそうであるように)読者でもある。アダプテーションによって表現形式間の越境が行われることで、言語表現を「読む」というプロセスが間に挟まるために、作中人物→作品外というフィクションのレベルの横断も可能になるのだ。こうして、語るキャラクター(それは実は制作者でもある)に対して、それを聞き取る制作者がいるという、フィクションのレベルを横断した制作者たちの肉体の系列が、「抒情=怪談空間」のなかでは生じる。「作者の集団化」(115下/602)である。であれば、その作品が読まれて次の制作につながり、それがまた読まれて次の制作に、……という繰り返しによって、集団的制作者の肉体の系列はどこまでも続いていくだろう。

そして発表者にとって、『古事記』をはじめとするテクスト上に記録された天皇は、おのれの行為がテクスト上で、さまざまな土地と結びついた表現主体たちを巻き込んだ制作行為となるという点で、「集団的制作者を宿しうる高性能な像」(117上/606)である。ここで「像」という言い方がされていることに注意すべきだろう。それはつねに表象された天皇なのだ。次の【引用10】で話題になっているのは『古事記』テクスト上に現れる天皇である。そのあと言及されるのも「映像」(625/126上)上の天皇である。

【引用10】〔…『古事記』中・下巻において記述される、神に対して神意を問う〕人間でしかないはずの天皇は〔…〕全く偶然行なっただけでしかない自らの極めて人間的な行為を、しかし周囲から事後的に神らしい(≒「神さぶ」)振る舞いと見做されることにより、人間であるままに「神」と短絡的に呼ばれ、テクストのその表面において神へと変貌する(あるいは現実に死して神意の受け取りに失敗する)。ここには天皇という役柄が外部より強制的に備給される、偶然性と事後性、そして二重性がある。天皇とは人間が自らの肉体のもとで執り行なう無数の行為が帯びる偶然性とその帰結としての生死を、その生の側からのみ逆回転させ、「国」という複数の土地+私の「運命」の「上演」として辿り直す過程で生まれる、人間の集団的な人+神への発達モデルとしてあり得る。(625/125下)

神ならざる人間である天皇は、行為をなしながら生き残ったり死んだりするが、たまたま生き残った(「偶然性」)ことがテクスト上に記録されるや、それは後付けで(「事後性」)周囲から神意を反映したものと見なされ、天皇は人間でありながら同時に「神」と呼ばれる(「人+神」という「二重性」)。行為をなしながら生き残ったり死んだりするのは「人間」一般にいえることだが、とりわけ「天皇という役柄」は、そのうち生き残った場合のみをあとから取り出し(=「偶然性〔…〕と生死を、その生の側からのみ逆回転させ」)、先行した行為に対して神意という意味付けをすることで成り立っている。発表者によれば、そうした役柄によって、「国」という(前回、折口信夫らの枕詞論を引く箇所を見たように、音を通じて制作主体たちの〈喩〉を伝える)「土地+私」たちの「運命」が「上演」されることで、人間は「集団的」に「人+神」へと発達しうるのだ。なお「運命」という語は、「運命=戯曲」(115下/602)という形ですでに出ており、上演されるべき戯曲と類比されていた。

発表者によれば、天皇制を、他の土地にも広がる制作者たちの肉体の系列として見るならば、それは男女の生殖によって繋がる「万世一系」の系列とは異なるという限りで、「性別二元論」(117上/606)から解放されるということもできる。一方、発表者は、天皇制のみならず表現主体の肉体の系列もが、参画する者を系列のなかの一部にしてしまうことで、抒情をもつ表現主体としての「(この)私」≒「自由意志」(102下/572)≒「人権」(117上/606)を損なうかもしれないことを示唆している。菅原が患った症状に近いという「コタール症候群」の病態について、発表者は、先祖という「実態的な存在性格を帯びてしまった死者たちは、一方では無底の空洞として生者を呑み込み、他方では生者の肉体を“死体”化する」(114下/600)という渡辺哲夫の記述を引き、それを引用する飯島洋一を介して「天皇制に内在する憑依と不死の問題」(114上/599)とまとめている。さらには『WPS』をプレイすることによる「「コタール症候群」の誘発可能性」(126下/627)に言及するのだ。

ともあれこれで疑問に答えられるだろう。

(Q2.1)天皇が「高性能な集団的制作者像」であるとはどういうことか。また「天皇制の奇形的発達」とはどのような事態か。

(A2.1)天皇は、おのれの役柄を上演することで、日本の詩歌固有の〈喩〉を介して、他の制作者たちとの肉体の系列を作り出すということ。またそれによって、生殖に基づいた万世一系という通念上の天皇制理解を超え出ていくということ。

ここでは2点補足しておく。

  1. 【引用10】に現れる「事後性」という語は、2019年のトークイベントにおける鈴木氏のスライドを見ると、熊木淳『アントナン・アルトー 自我の変容:〈思考の不可能性〉から〈詩への反抗〉へ』(水声社、2014年)に由来していることがわかる。このスライドは「無断と土」との関連が非常に深く、口頭発表の内容に対する作者本人のスタンスを推定するうえで必見である。
  2. 【引用9】に現れる「〈死角〉空間」という語について、この言葉自体は注7(109欄外/587)が示す通り、副田賢二「表現システムとしての〈怪異〉とノスタルジア」(一柳廣孝(監修)、茂木謙之介(編)『怪異とは誰か』所収、青弓社、2016年)に由来しており、発表者は、この語彙を菅原の詩を分析するなかで用いる(112下)。だがこれが【引用9】では「余白」と言い換えられることを踏まえると、山本氏が2018年の別の文章などのなかで触れている荒川修作およびマドリン・ギンズの「〈ブランク〉」概念も踏まえられているかもしれない。

(Q2.2)「高性能な集団的制作者像としての天皇」や「天皇制の奇形的発達」は、『WPS』においてどのように「具体的遂行=上演」されているのか。

『WPS』は、個々のプレイヤーのプレイングがフィードバックされることを通じて、それ自身を変えていくのだった。図4(125上/622)が示しているように、『WPS』のプレイヤーたちは、一つ前のプレイヤーのプレイングが反映されたマップの中でプレイし、その姿と出会うことになる。

【引用11】その内部に採取された各々のプレイヤーとは、自身の肉体のシステムに還元できない(とはいえ単なる感覚器官の統合できなさでしかない)抒情のバグを、複数の肉体がそれぞれに感知するバグらを独自に接続させるためのアナーキーな共同空間として誤認することでかえってフィクショナルに遠方で立ち上げる、一種の触媒としての役割をこの世界にとって果たすことになるだろう。『WPS』のゲーム空間は、個々の音でも視覚的イメージでもテクストでもない、こうしたプレイヤーの肉体群が初めて出合わせる多様な恐怖(極めて主観的でしかあり得ない霊との遭遇がもたらす当事者性の質感)、その背面に糊付けされた表現主体の生成過程をめぐる強力な〈喩〉の力=擬似的遡行力らのあいだの差分によってこそ作り出された、弾力ある潮位の構築物なのである。(124下-125上/624)

VRゲーム内の個々のプレイヤーの肉体は、過剰な情報による〈喩〉の失敗(「抒情のバグ」)を、想定された制作者の肉体たちと同居する空間を構想(「誤認」)することで、ゲーム空間内に「霊」として立ち上げる(「かえってフィクショナルに遠方で立ち上げる」。なおここで「遠方で」という語は、折口信夫の引用部にある「遠処にある」(122上/617)と対応している。ゲーム空間という「土地」に、ほかの制作主体という「霊魂」が宿るのだ)。これはプレイヤーの肉体たちがあることによって可能になっているという意味で、プレイヤーの肉体たちは「触媒」の役割を果たしているといえる。そうした肉体たちが感じる「恐怖」は、おのおのが異なる「〈喩〉」を持っているために「差分」を含む多様なものとなる。その肉体ごとの「差分」が集まることによってこそ、『WPS』のゲーム空間は構築されるのだ。

「弾力ある潮位」はとても隠喩的な表現であり、意味を確定しづらいが、構文的には「〈喩〉の力」と等しい位置にあるので、個々のプレイヤーの肉体がもつ「〈喩〉」の多様性のことではないかと思う。「潮位」という隠喩はここにのみ現れるが、その上下する性質から、「〈喩〉」が処理しうる感覚的情報の限界を表していた「閾値」(102上/571)に通じるかもしれない。

改めて、発表者がなぜ『WPS』に「明らかな作者の意図の存在」を見出そうとしたかを考えよう。発表者は、「『WPS』のなかで鳴る音がプレイする肉体に与える恐怖は、特定の作者像(視覚)への還元が即座には困難であることに一要因がある」としつつ、「『WPS』の構造を敢えて特定の作者(の意図)ないしは視覚像へと組み替え」(126上/626)たという。

ここで発表者は、「『WPS』の作者」という像を生み出すことで、『WPS』がもたらす聴覚体験の不気味さを解消しようとしているのではないか。ここには、発表者が、集団的制作者にかんするみずからのアイディアを前提しつつ、そうした多数性を縮減するために単一の「『WPS』の作者」という存在を方法論的に用いることによって初めて、『WPS』が集団的制作者というモデルの「上演」となっていることが引き出される、という一種の循環が生じている。こうした循環が、続く「質疑応答」において「質問者1」の疑念を生じさせていると思われる。

第3節 小説としての達成

第2節では、本作の口頭発表における発表者の議論を、内在的に再構成することにこだわって記述した。すなわち、口頭発表(第0部~第4部)に記述されている、発表者に帰属される言葉をもっぱら頼りにして、整合的な解釈を構築しようとした。

第3節では、こうした内在的再構成から離れて、その小説としての企図を問題とする。先取りしてまとめれば

  1. 口頭発表という、学術的共同体による知の承認プロセスを背景にもちつつ、自由な記述を可能にするスタイル
  2. 「質疑応答」によって批判的に導入される、口頭発表内部では欠如していた視点
  3. 口頭発表と作者の距離を担保する作者自身のコンテクスト
  4. 「いぬのせなか座」のテクストに頻出する、モデル、レイアウト、ダイアグラムという形で表現される思考

という観点で書いていこうと思う。

本作は「シンポジウムでの口頭発表」という形式をとっているから、その「論文」との違いを意識して読むべきだろう。(少なくとも人文系の学会において)口頭発表は、これから論文にしたいアイディアに対し、萌芽的な段階でフィードバックを受ける機会として位置づけられていることもあり、必ずしも査読を経たうえで行われるわけではない。しかも本作では、将来の論文化に向けて「一部議論を省略したものである」(104上/574)と断られているのだから、非学術的とみなされるような論述がそのなかに見られてもおかしくないことになる。加えて、本作の文章は口頭発表の原稿のようだが、話し言葉で書かれているわけではない。したがって、現実にシンポジウムがあったとしたら、そこで読み上げられるであろう口頭発表と、書き言葉である本作の文章との間にもまた、差が生じるわけである。こうして、論文→口頭発表→その省略→書き言葉、というように「論文」から何重もの変形が加わったものとして作中の「口頭発表」は成立しており、学術的共同体における知の承認プロセス、および発話のスタイルの存在を前提としつつ、そこから離れて融通無碍な表現力を獲得することができている。

だがそれが単なる放埒になっていないのは、「口頭発表」の話者が、作品中に埋め込まれた他の話者と峻別されているからだろう。本作には「架空のフィクション作品を論じる」という内容の小説が陥りがちな、「作者の思うがまま」感がほとんど感じられない。まず、数多く出てくる詩に関しては、全文がそこに書かれている以上、それは実在する詩であり、その批評も実在する批評である。詩という小さな構築物が埋め込まれ、その周囲に書かれるべきことを規律することで、全体に緊張感が生まれているのだ。詩以外にも、作中で「引用」されたという体裁の部分(『PS』シナリオ、『WPS』内の文字)や、質疑応答における質問者たちは、メインの話者に対する「別の話者」としてしっかり立ち上げられている。こうした話者間の緊張関係は、「いぬのせなか座」として共同制作を行っていることによっても担保されていると考えられる。

口頭発表に続いて置かれる「質疑応答」は、「口頭発表のあとに行われた質疑応答を、事後的に記録したもの」という体裁として捉えると、冒頭に置かれた「発言者がいない場合に備え、司会は幾つかの質問を準備しておくこと」(126下/627)という指示がきわめて奇妙に映る。やはり、これは戯曲における「ト書き」として捉えるべきだろう。そこでは口頭発表(聴覚情報!)を聞き取り、応答する質問者と発表者という集団的制作者による「上演」が行われている、というわけだ。

この質疑応答では、「口頭発表」という形式が含意する、何らかのアイディアをパッケージングして、何らかの学術的コミュニティに対して差し出す形式であるという前提のなかに覆い隠されているものがあることを、質問者2・質問者3と発表者(「A」)とのやりとりが示している。

まず質問者2は、菅原とパートナー・張重根との関係に言及する。口頭発表内では、男女の生殖に基づく「万世一系」とは異なる肉体的系列の可能性を示す文脈で、「天皇(霊)が〔…〕持ち得ていたはずのクィア的方向性」(117上/606)のように書かれる一方で、パートナーの関係については一言「噂があった」(114上/599)とされるのみである。前者の「クィア的」という表現が、菅原のセクシュアリティにかんする事実関係を念頭に置いて、しかしそのことを明言しないで書かれていることに気づいた読者は、発表者に対して疑念を抱いてもよい。

発表者によって意図的に明言を避けられている事柄がある、という事態がより間接的な形で現れるのが、質問者3とのやりとりにおいてである。『WPS』のマップのレイアウトが「沖縄の斎場御嶽で行われていた「御新下り」に関わる場所の配置が元になっているのではないかと思った」(128下/631)という質問者3の発言は、ここまで読んできた読者にとって(「御新下り」に詳しくない限り)まったく新奇なものである。発表者は礼儀正しく応対しているが、文献を提示するよう求めてもおり、裏付けのない思いつきとして処理しているようにも見える。だが、ここで「斎場御嶽」に付された琉球語のルビ「せーふあうたき」は、少なくとも、ここまで発表者が用いてきた(学術的共同体が立脚する)日本語共通語の外部を示している。さらにそれは、あらかじめ国内に存在している方言・他言語や、沖縄・朝鮮などでの皇民化政策の歴史が発表内部では不可視になっていたことをも示す。発表では、そのうえで和歌論などを参照して「日本の詩歌にのみ見られる〈喩〉」(122上/617)というアイディアが提示され、共同性の基礎として位置づけられていた。すなわち発表者は、確かに「万世一系」という皇統のもとに結集するナショナリズムを退けているが、日本語や(勅撰和歌集などが示すように、天皇がもつ権力・権威の正統性と結びついてきた、和歌という)文学的伝統を共有するというレベルでのナショナリズムは、むしろ前提視しているのだ。

そうすると、作中に「朝鮮人差別」という語自体はかなりの回数出てくるのに比して、それに対応する具体的な記述が乏しいことも気になってくる。とりわけLSPSの破綻について、菅原がその原因を「共産主義・反天皇制運動・朝鮮人差別反対への国家側からの弾圧、そしてそれをめぐる抵抗方法の不在」(115下)だと考えていたと言及されるにもかかわらず、LSPSと朝鮮人差別との間にどのような関係があったのか、他には何も書かれない。非常に踏み込んだ言い方をすれば、発表者は、朝鮮人差別の歴史に対するアリバイ的言及(無視してはいない、という態度を示すためだけの言及)をしているようにも思える。

質問者2・質問者3とのやり取りにかんして、以上のような趣旨のことをTwitterに書いたところ、作者の両氏から、まさにそうした欠落が意図されている旨、応答をいただいた。

(ここで言及されている2編の改行詩(112下-113下/595–598)は、発表者によって「両者ともに先に触れた民俗学由来の来歴捏造願望に貫かれていることは明らかだ」(113下/598)と断じられている。そう思って読むと、確かに不自然な断言に見える。)

以上見てきたように、口頭発表を批判的に相対化する視点が、質疑応答によって、あまりあからさまではない形で導入されている。

ところで、このように発表者に対する批判的視点を設定することには難しさが伴う。発表者を通じて、作者自身が(少なくともそれを想像し構築することができることを示す、という意味で)おのれのアイディアを提示してもいるといえるからだ。したがって、発表者という話者がどのようなスタンスで構築されているかを推定するには、発表者に帰されていた言葉を、作者が生み出してきた文章群というコンテクストのなかでも理解しなくてはならないだろう。実際、発表者の議論には、作者が別の場所で展開してきた論考との連続性が明瞭に見られる。

とりわけ、前節で見たような、日本語共通語を無自覚に所与のものと捉える発表者の態度に対して、作中に批判的視点が設定されているか否かは、初読時には判断できず、山本氏のnote記事「イベント「新聞家 VS いぬのせなか座」に向けて」を読んで確信したところだ。その後、上でも挙げている2019年のトークイベントにおける鈴木氏のスライドを読むことで、より直接的な判断材料を得た。

「無断と土」と他の仕事との関連については、ここまでの記事でも折に触れて言及してきたので、各箇所のリンク先を参照いただきたい。

包括的なものとして、山本浩貴氏、またh氏とのユニット「山本浩貴+h」による仕事のリストは下リンク先を参照。

また鈴木一平氏の仕事については、その一部ではあるが、以下のツイートから始まるツリーを参照。

グループ「いぬのせなか座」が発行する出版物(装丁・デザインのみ手掛けた、グループ外の著者によるものも含む)については、以下のWebストアを参照。

上記Webストアで見られる「いぬのせなか座」が発行する出版物は、多くの場合ユニット「山本浩貴+h」が装丁・デザインも手掛けるために、テクストがそのレイアウトと不可分になるような形になっている。そしてその中では、しばしば「レイアウト」自体についても論じられる。たとえば、散文とは異なって詩がレイアウトと切り離せないことについては以下で語られている。

詩とは、既存の文法や意味、組版ルールといった、言葉の配置関係=レイアウトに必然をもたらす論理を、人間の知覚や思考の足場としつつも内側から破り、解体し、再設計することを試み続けることで生まれた、ひとつの特異な思考を可能とする場だ。
いぬのせなか座「現代詩アンソロジー 認識の積み木 制作ノート」『美術手帖』2018年3月号、美術出版社、100ページ。

本作における「ルビ詩」も、まさにレイアウトによって成り立っている形式だった。

また山本氏やユニット山本浩貴+hの関わったテクストにはしばしば、新奇な図が挿入される。本作における『WPS』のマップもそうした「ダイアグラム」の一つだといえる。他の例としては、第1回でも触れた大江健三郎論「新たな距離」や、大林宣彦論である山本浩貴「ただの死がもたらす群生した〈軋み〉:大林宣彦における制作と思考」『ユリイカ』2020年9月臨時増刊号〈総特集=大林宣彦〉(青土社)がある。

こうした「レイアウト」や「ダイアグラム」を用いて、論述上で扱う要素を、「モデル」や「像」というような言語的かつ視覚的なものにしていくことで、同じものが一方では思考の対象(フィクション内の構築物)となると同時に他方では思考の形式ともなっている、ということが、本作でも他のテクストでも起こっているように思う。

(本節はまだ考えがまとまっていないので、そのうち書き足すかもしれない。)

本作についてここまで書いてきて、「2つのものが同時に提示されている」として整理した局面が何度かあったことに気づく。具体的には

  • 言葉の「輸送」の2つのプロセス
  1. 語の反復という、一編の詩のなかでのプロセス
  2. 「複数の肉体が知覚し記憶してきたエピソードの統合と純化」という、「この私」のみに帰属するのではないプロセス

とか

  • 「空間」の発生の2つの段階
  1. 〈喩〉の失敗という否定的契機を通じて、表現主体たちの肉体が擬似的に配置される「抒情=怪談空間」が、読者の肉体において構想される
  2. 表現主体たちが実際にその中に配され、声が聴き取られ、共同性が現実のものとなる具体的な空間が作られる

といったことである。ここではいずれも、異なる2つのレベルとみなせるものが「輸送」とか「「空間」の発生」というそれぞれ単一の語句のなかに折りたたまれ、それによって、一つの文章を読んでいる間にも、読者には複層的な思考が生じる。これが何によって可能になっていたかというと、そこにはある舞台のなかに配置される、上述した視覚的かつ言語的な「モデル」への還元が介在しているようだ。「輸送」の場合は紙面上のレイアウト、「「空間」の発生」の場合は舞台空間(『WPS』の場合はVR空間)内のレイアウトというように。限られた舞台のうえに多くのものを「視覚的かつ言語的に」重ね書きすることで、長さの限られた短編小説のなかで、読者の認知に効率的に負荷をかけることができるわけだ。これにより、小説のなかで問題になっていた情報の過剰さが、当の読者をも襲う。

こうした複数のレベルを横断する論述は、どこか一点で気を抜けばクリシェ的なメタフィクションになって台無しになるところだが、本作はそうなっていない。論述や空間描写は、隅から隅まで読解可能であるように克明に書かれており(ということを示すために、本記事シリーズを書いてきた)、不用意に塗りつぶされているところがない。したがって読者は逃げ場を失い、一言一句に注意した読解を迫られることになる。そうした克明さを保ちながら、短い語句にそうして複数のレベルを割りあて、表現レベルでもなるべく簡潔なものを選ぶ圧縮的な文体は、「口頭発表」というスタイルによって可能になったものだ。とりわけVRゲーム『WPS』に関しては、プレイ体験を軸とした詳細なディスクリプションが提供されており、それを追うことで、プレイをあたかも怪談を熟読するかのように追体験することになる。これを読んでいると、ホラー作品に集中したとき特有の、周囲のものが妙に気になってくる「感覚過敏」モードに移行する。これがいまどきの小説でなぜ「描写」というものを行うのか、という問題への一つの答えだろうと思った。

本作を読んでいると、口頭発表の対象となるフィクション的事物の水準、それを記述している多声的な語りの水準、そしてそうした作品を差し出してくる制作者という3つの水準の重なり合いによって、テクストに対する恐怖を感じる。上述したように「質疑応答」以降は「シンポジウムの原稿や記録」というフィクションを提示する体裁自体が変容し、多層性が剥き出しになっていくが、こうして構築されてきた多層構造が「質疑応答」のあと、最後のト書きにおいて一挙に折り畳まれるところに、本作の迫力が生じている。

こうした読解を通じてたどり着いた最後の一文、

あからさまに苦痛が上空で笑っている、光の加減がまだ眠りの閾値に達しないからだ。(130下/636)

という「ト書き」がもたらす過剰な身体感覚に、読者がいかなる「圧迫」を感じることができるかが本作の成否を占うだろう。「苦痛」という抽象概念(非生物)に活喩法が用いられ、「光」や「閾値」という過剰な感覚にかんする語が「輸送」されてきている、こうした「上演」の総決算に「圧を、強い質感とともに受ける」ことができるかは、読者に委ねられる。情報の密度によって生じている以上、「圧迫」はネタバレによって増しこそすれ弱まることはない。本作が執拗な再読に耐える理由がここにある。長く読み継がれてほしいと思う。■

Full-time yuri aficionado & language enthusiast. 1992, he/him. JP/EN.

Full-time yuri aficionado & language enthusiast. 1992, he/him. JP/EN.