Weekly Report — 2021/12/11 - 2021/12/25

misora100
Dec 26, 2021

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今年最後である。1月上旬の入稿を目指して、プロセカ本を制作中。

「無断と土」の記事を書いたのは、『S-Fマガジン』6月号にせよ『異常論文』にせよ「多くの読者を獲得してほしい」、煎じ詰めれば「売れてほしい」、という願いを込めてのことだった。インターネットを通じた販売促進に、自覚的に乗ったということだ。したがって私自身も、一読者でありながら「幻の絶版本」問題を生じさせるにいたった構造のなかに組み込まれているし、責任の一端はあるだろう。徹底して1作のみにフォーカスし、作者の方以外のツイートはLike・RTを控えることで、特集名からは距離を取っていたつもりだったが、そのように見られたいというのは身勝手だ。そういうわけで、埋め合わせにはならないが、関連して考えたことを書く。

(2022/8/22追記)なお、「幻の絶版本」のようないわゆる「ミリしら」企画を行いうるとしたら、取り扱う本を「すべて」「確実に」「自社で」「雑誌企画と同時に」復刊することが最低条件だと思う。つまり(大抵そんなこと喜ばないであろう作家・権利者と交渉するなど)タフな準備なしには存在すべきではないものであり、企画プロセスを萌芽段階から公開するような性格のものではない。で、かりにそれが達成されたとしても私は嫌うと思う。

集団には「投げ込まれる」面と「自分の意志で入る」面があるが、個人として自立するとともに、後者の比重を高くしていくべきだ。そこでは(自分がリーダーでなくとも)オーガナイズの技術が必要となる。自然のなすがままに仲良くなって寄り集まったら、社会構造を露骨に反映するものになってしまう。集団には(差別的でない)目的、それを実現するための理念、その理念に反しない限り開かれたものにする施策、それらを共有することを確認したメンバーシップが必要である。集団をよりよくしていく責任をもったメンバーたちの集まり、というのを選び、あるいは作り上げなければならない。

ここで「交友関係」のあいまいさが問題になる。交友関係には明確なメンバーシップがない。理念も共有されていない。他人の行動を統制することもできない。だがSNSによって「クラスタ」が可視化されるように、それは半ば集団である。と、少なくとも外部からは見える。したがって二つのことが重要になる。

  1. 目的のある活動には、交友関係を持ち込まないか、たまたま持っている交友関係を基盤として始めるにしても(そうせざるを得ないことも多い)、開かれたものにする行動規範を作る。自然のなすがままにやらない。
  2. 自分の交友関係は、自分の意志で選ぶようにしていく。

交友関係はそういうものではない、という意見もあるだろう。①過去の自分のありかたや、偶然の出来事を引き継いでいるところが交友関係というものにはあり、コントロールしきれるものではないのは確かだ。だが変えていけるのも確かである。②交友関係のような私的な関係にたいして、社会構造とかをめぐって反省を加えることはなじまないだろうか? 私はそうは思わない。交友関係は、それに基づいて社会的行為を行うものなので、純粋に私的なものではない。むしろそうした私的/公的の境界上にある事柄こそ、考え続けるべきだと思う。③居場所になっているなど、実存がかかっている場合、どうするのか? 自分でよいと思えないものに実存をかけるべきではない。元気になったら移動するとよい。

TRPG、複数の読書会、『文舵』合評会など、DiscordやZoomでグループ通話する活動をいくらか行ってみた経験に基づいて、グループ通話を集団の目的に沿った、安全なものにするために、やったほうがよいと思ったことを列挙してみる。実現できたものばかりではない。実現できてたらな、という後悔に基づいて書いているものもある。

  • (ちゃんと責任を取れる、真面目な)責任者を定め、日程を予告して始める。
  • 録音してハラスメントを防止する。他方、録音データの破棄プロセスについても定める。
  • それ自体はハラスメントではないが、やり方によっては攻撃的になりうる行為(他の参加者の発言がよくわからなかったので追加説明を求めるなど)を、互いを尊重して礼儀正しく行うためのプロトコルを決めておく。
  • 会合の目的と、どのような発言が歓迎されるかをメンバーに共有しておく。
  • アジェンダを示し、それにしたがって進行する。フリートークのタイミングも用意しておく。
  • ファシリテーターは、一人が発言機会を占有しないようにする。
  • ファシリテーター自体を持ち回り制にする。

SFにかんして私は長らく、ファンダムにおのれを位置づけてこなかったし、好みのものだけつまんで読む、ということしかしてこなかった。だが今後、「数理文学」にかんする探究を行ったり、SFサブジャンル(サイバーパンク)に属すであろう小説(二次創作です)を書こうというのなら、それだけではダメだろう。ジャンルのファンダムは知的生産の場でもあって、私自身も、直接の人間関係こそなくても、たえずその成果を享受してきた。そうした歴史に敬意を払う必要がある。知的生産に参与できるような、しっかりとしたジャンル教養をつけなければならない。というのはどういうことかといえば、自分が生み出すものが、どういう文脈に関連していて、どの点でオリジナルな成果なのかどうか判別がつくようになるということだ。

具体的には、早川書房編集部(編)『海外SFハンドブック』(ハヤカワ文庫、2015年)の「必読作家・必読書100選」に挙げられた20作家について、できれば原語と翻訳の両方で、1作家20冊を上限に読みたい(~3年程度)。ただこれは1人(レム)を除いて英語で書く作家であり、また3人(ル=グウィン、ティプトリー、ウィリス)を除いて男性作家である(既存カノンのバイアス)ので、他の言語やジェンダーからも作家を選び、同様に20冊を上限に読む(~5年程度)。ネビュラ賞、ヒューゴー賞、世界幻想文学大賞の各部門の小説作品を読む(毎年)。英語の他にもう一言語、コンスタントに読む言語を作る(~3年程度)。

サイバーパンクについてはより深い理解を得たい。Anna McFarlane/ Graham J. Murphy/ Lars Schmeink (ed.), The Routledge Companion to Cyberpunk Culture. New York: Routledge, 2020で言及されている作品を、(小説以外も)手に入れうる限り網羅的に鑑賞する(~5年程度)。

しかし他方、カノンを共有することの限界についても留意しなくてはならないだろう。どのような言語環境に身を置くか、同じ言語のなかでも時代・場所などで風景は変わる。アーカイヴは重要だが万能ではなく、商業流通など複数あるアクセス方法の一つにすぎない。どういうジャンルへの関わり方をするかによって、要求水準は変わる。専門雑誌の編集をする、というのには最高水準が求められるだろうが、一般のファンに対して同じことを求めるわけにはいかないだろう。

「数理文学」といえば次の本を読んでいくことにした。そろそろ届く。2022年1月にペーパーバック版が出るみたいです。それでも値は張るのだが。Robert Tubbs/ Alice Jenkins/ Nina Engelhardt (ed.), The Palgrave Handbook of Literature and Mathematics. Cham: Palgrave Macmillan, 2021.

そういう、今後やっていくことの基盤になるような書籍購入を今年はいろいろすることができた。

ところで、貯金が尽きたりという破滅的な局面を経ながらも、たくさん本が買えるようになったのはここ3年くらいのことで、それは約5年前に企業の正社員となり、安定した収入を得たあと、負債(日本学生支援機構の奨学金)を返したからである。こうしたことが示しているのは、経済状態が文化的活動の可能性に露骨な格差をもたらすということであり、社会構造による有利不利がそのまま出るということである(例、雇用・賃金のジェンダー格差)。それはとりわけ、公的アーカイヴの役割が期待できない領域、たとえば同時代の海外書籍を読むなど、に現れる。私自身についていえば、かりに(無理矢理)大学院生を続けていたら今でも生活はかつかつで、公共図書館・大学図書館に入らない類の本──海外の同時代小説を買ったりとかはまったくできなかっただろう。

個人レベルでの生存戦略は、とりあえず稼げるだけは稼ぐ、そして自分がなぜ稼げているのか、構造的要因に思いを馳せて、それを是正するような活動方針を考える、あと他人が資金を募っていたら出資・寄付する、というあたりになるだろう(私もそのようにしかしようがない)。だが社会レベルではそうではいけない。マクロ経済状況がよくならなければならないのだ。よくなるというのはつまり、多くの人々が、読み書きしたり、関心に応じて本を購入できるような余裕がある生活を送れなければならない。私自身が多少損をすることになったとしても、社会民主主義的な経済政策を支持する理由である。■

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misora100

Full-time yuri aficionado & language enthusiast(でありたい). 1992, he/him. JP/EN. https://misora100.github.io/