『ガルパ』、その「情操教育」【1】

misora100
Sep 7, 2022

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本記事シリーズでは、アプリゲーム/Nintendo Switch用ゲーム『バンドリ! ガールズバンドパーティ!』(Craft Egg、2017年~(アプリゲーム版)。以下『ガルパ』)について、そのシナリオゲームの側面(アドベンチャーパート)に注目しながら書いていく。

本記事はその1回目である。目次はこちら

初版 2022/9/7
最近の修正 2023/1/10 ゲーム内で「キャラクター」のことはつねに「メンバー」と呼ばれる、と書いていたが「バンド・キャラ図鑑」(旧「キャラクター図鑑」)など普通に使われていることに気づいた。なぜこんな基本的なところで勘違いを……。

はじめに

『ガルパ』に含まれる「会話」を合計すれば、その量はこれまでの生涯、30年間にわたって私がひとと交わしてきた会話の総量にさほど引けを取らない。想像を絶するかもしれないが、私がこれまで実際に行ってきた対人会話は、おそらく数百時間にすぎない。フカシではない! 1000時間はないと思う。しかもそのうち100時間くらいはごく最近、2021年以降のものだ(この記事を書いているのは2022年9月)。他方『ガルパ』は、「イベントストーリー」に関する部分だけ取っても、一つのイベントにつき「メンバーエピソード」も含めてオート再生で1.5時間くらいあり、そのイベントが200個とかあるわけで、私とはせいぜい2~3倍の違い、いい勝負である。私のなかの「会話」概念は、実際におのれが交わした対人会話にもまして、『ガルパ』のなかの、いわばモデル化された「会話」を大量に鑑賞することによって、私の20代後半にかたちづくられたように思う。私は、ひとと会話する能力を外付けされたのだ。会話するとはどういうことかを、そして一貫したストーリーを展開する「続き物 serial 」のなかで持続的に提示され、時系列的に変化もしていく堅牢なパーソナリティーが、いかに他者との会話を通じて現れるかを、私は『ガルパ』から学んだ。「会話」を基礎とする「情操教育」を、『ガルパ』は私にもたらしたのだ。これから『ガルパ』のシナリオについて数年にわたって、数十万字とかいう規模で書いていくなかで、私にとってこの事実は、ずっと導きの星となる。

この記事シリーズがどういうものになるべきか、という基本的な方針を表明しておきたいと思う。全貌がわからないなか、長期にわたって書いていくおのれを規律するためである。私がおのれに課すミッションは、次の三つである。

  1. 「とても長大な文学作品」であるアプリゲームのシナリオに、そのテクスト自身が要請するしかたで、詳しい記述を与えること。
  2. おのれの読解を説得的に提示しつつ、それを「鑑賞者の多様性」の観点から相対化すること。
  3. 女性同性愛の「非当事者」として「百合」を語るよりよいしかたを、「徹底的に作品に即して」模索すること。

このシリーズを始めようと思った動機は、次の記事に書いた。ここで「社会」と呼んでいるものを、本記事シリーズでは「言語世界」という概念に練り上げたい。

こうした「ミッション」について詳述する前に、必ず書いておかなければならないのだが、アプリゲームとしての『ガルパ』は、有償のガチャ要素を含むゲームである。ガチャというものは邪悪である。スマートフォンなどの身近な機器のうえで、確率的にアイテムを獲得させることで絶えず射幸心を煽り、しばしば使ったという実感もなしに高額な金銭を費やさせるのだ。それで財産を使い込んだり、債務を抱えて困っている人々が、世の中には大勢いる。『ガルパ』の場合、ガチャで特定の「メンバー」(シナリオは約10分)を入手するのに最大約9万円がかかり、それが月3回のペースで実施される。まったくの異常である。そんな価格のフィクション作品が、他の分野にありますか? 射幸性とそもそもの高価格とが、社会問題を引き起こしているわけだが、そのようにガチャが設置されているのには「一部の高額課金者による実質的なパトロネージュ」を実現したいという意図があるのだと思う。しかし、ガチャとパトロネージュは分離されるべきだ。アプリゲームのガチャは今の相場より一桁は低額になるよう法規制されるべきだし、他方、全体としての作品に対して何十万円何百万円を払ってもいいと高い価値を認めるファン向けに、別途パトロネージュ的な機能をもつ仕組みが作られるといいと思う。私は『ガルパ』に100万円くらい払いたいが、ガチャは絶対に嫌である。

こうしたアプリゲームの有償ガチャの要素は、他方、ユーザーの鑑賞体験をコントロールする機能ももっている。ガチャが高額であるため、そこでのみ入手できる「メンバーエピソード」も含めた『ガルパ』のシナリオ全体を鑑賞することは実質的に不可能となっているのだ。こうして、「メインストーリー」「バンドストーリー」「イベントストーリー」「エリア会話」などを共通のコアとして共有しつつも、ユーザーの鑑賞はつねに部分的なものにとどまる。おのれが定めた少数の「推し」キャラクター(本作品では多くの場合、特にガチャで入手できるいわゆるカードを指して、「メンバー」と呼ばれる)を起点として、見えない全体を想像するようにして鑑賞が行われるのだ。このことは(ミッションの2とも関連するが)個々の鑑賞体験を相対化する。だがこれは、ゲームについて本格的に語ろうとするときには、誤った記述をするリスクともなる。

この二つの理由から『ガルパ』に、特に肯定的な言及を与えていくことに若干のためらいを覚えていた。そんななか発売されたのが、Nintendo Switch版(2021年)[1]である。「シーズン1」(2017年3月~2019年3月)のほぼすべてのシナリオを含むこのバージョンでは、ゲーム内で「CiRCLEガチャチケット」を集めることで、すべてのメンバーを獲得することができる。有償ガチャの要素は無化されている。また時間さえかければたぶん、すべてのシナリオを読むことができる。この発売により、「シーズン1」のシナリオの受容はまったく新たな段階に入ったと思う。そこで私は、当面は「シーズン1」についてのみ語ることにしたい。(シナリオにおいて、もっとも高い志のもと高度な達成がなされたのは主に「シーズン1」においてであり、本記事シリーズはその志と達成に捧げるものであるから、特に不足は感じない。)現在進行中である「シーズン2」(2019年3月~2023年3月)についても、「バンドストーリー」「イベントストーリー」の範囲で折に触れて言及するが、本格的に語るのはコンシューマーゲーム版が発売されたらにしたい。2026年とか、それくらいだろうか。発売してほしい。

[1] 『バンドリ! ガールズバンドパーティ! for Nintendo Switch』(Craft Egg/ロケットスタジオ、2021年)。

「ミッション」の話に戻る。各項目の詳細については、やがてこの記事に追記していく。具体的に記述してから表明することが望ましいのだ。ただ、ミッション3「女性同性愛の「非当事者」として「百合」を語るよりよいしかたを、「徹底的に作品に即して」模索すること」については今、多少説明しておきたい。

(2022/10/1追記)これを最初から書いておかなかった浅慮を反省しなければならないが、以下の3点は大前提であり、いくら強調してもし足りない。

  1. 個別のファン・制作者は属性に関係なく、安心して百合のファン・制作者でいられるべきである。
  2. 個別のファン・制作者はおのれの属性の開示を迫られるべきではない。
  3. 制作者の属性と作品の評価は無関係である。

これらは前提としたうえで、「2022年現在の言説状況」に対して、「非当事者」として百合について語るよりよい仕方を提出したい、という話をします。(追記終わり)

私は、「百合」ジャンルを愛好する男性である──と、脅威を感じることなしに発話できることの、なんと特権的であることだろうか。2022年現在のインターネット環境で女性(さらにはジェンダー/セクシュアル・マイノリティ)であることを明らかにし、特にオピニオンを前面に出して発言することによってただちに見舞われる危害について、知らないとは言わせない。そう言っている私もそうした立場に立たされていないから、骨身にしみてはわからない。第二に私は、高等教育を受ける機会を得、長い文章を書く訓練を受け、おのれの思想をまとまって表現する力を身につけた。その背後にも、ジェンダー不平等をはじめとする社会構造が横たわっている。そして第三に、これは第一の点とも強く関連するが、この記事シリーズは紛うことなき、もっとも一般性を高めた意味での「批評」言説であるが、2022年現在の日本社会において、わざわざ「批評」と名乗る言説というのは、プロであれアマチュアであれ、そうした不平等が甚だしいジャンルである[2]。こうしたことたちが発話の機会に差をもたらし、「百合」をめぐって公にでてくる言説を、その言説の場ごとの仕方で、偏らせることだろう。自己陶酔的で有害な「原罪」意識などとは無縁の、マイノリティ表象を愛好することを肯定しうるかという問題よりも手前にある、「百合」について公に発話することをめぐるこうした現実を、まずは認識すべきだと私は思う。

そのうえで話を始める。「非当事者」にとって百合ファンであるとは一般に、まずなによりもおのれのもつ男性などのジェンダー、異性愛などのセクシュアリティ、等々がたえまなく有標性 markednessを帯びるという経験である。〈BanG Dream!〉シリーズに関する象徴的な例として、女性キャラクターに対して男性が介入する異性愛ファンアートを発表したり語る人々について、かつてTwitterでいわゆる棲み分けのためのハッシュタグである「#バンドリノンケ部」が作られたことがあった。それは「部」でしかないのだ(「ノンケ」の語を異性愛の立場から使うことの問題は別途ある)。また創作投稿サイトpixivでは、女性キャラクターが男性と性行為を行うR-18イラストには、「#BanG_Dream!」タグに加えて「#ヘテロ」タグが付される慣習がある。有標性にはこうした「隔離」機能もある。しかし「有標性の付与」だけでは鑑賞者には十分な変容が起こらないのではないかと思う。フィクションを鑑賞しているあいだだけ娯楽的に「有標性を付与・隔離」されることを楽しみ(「壁」というミームで喜ぶ、等々)、終わればふたたび普段の生活に帰っていくことも可能だからだ。

(2022/09/11追記)現実社会の女性同性愛について関心をもったりアライになるきっかけになる、といったことはもちろんフィクションを読むことの意義のひとつなので、あらかじめ書いておくべきだった。それは当然というか最低限のことである。継続的に百合ファンをしていて、現実社会の事柄に無関心でいることのほうが難しい。学ばないではいられない。だが、そうした前提のうえですら、さきほど書いた社会的な「娯楽」扱いゆえに、「百合ファンですアライです」と言ったところで、絶望的なまでに疑わしさがつきまとう。すなわち、(読む方によってはショッキングな表現となるが)「「非当事者」百合ファンは、現実社会に存在するセクシュアリティ/ジェンダーによる差別に対して、アウェアであるというポーズを見せつつ、実態としては娯楽として収奪的に愛好する、という二重のいいとこ取りをしているのではないか」といったきわめて絶望的な疑念が向けられうるわけである。このような疑念は、「個別具体的な」ファンに簡単にぶつけてよいものではない。「社会構造的な要請」を理由として、おのおのの事情をもつ個別的なファンがはっきりとした態度表明を迫られる、というのは望ましいことでは断じてない。だが、「言説状況全体のなかでは」何らかの応答の道が用意されているべきである程度には理由のあるものだとも思う[3]。その疑念に対してよりよい応答ができないか、というのがここで考えていることだ。次の段落で述べるように、「娯楽」のポテンシャルを最大限に発揮させる、というのがその中身である。この段落の内容はすごく大事なので、最初から明確に書いておくべきだった。反省。(追記終わり)

さて他方、百合ファンであることは、「友情」「恋愛」「性愛」「家族の紐帯」といった、「愛」さらに広くは「親密性」、それによって成立する関係、またそれを構成する「欲望」に関するさまざまな概念が言説上・社会的実践上でなす秩序を、いったんバラバラにし、ひとつひとつを対象化して考えることをも促す。それは改めておのおののかたちに組み立て直されるが、もはや元のままではいられないことだろう。これは、いわば「クィア的観点」から、おのれが抱いている「男性性」、「異性愛」などの概念やそれをかたちづくる欲望が対象化され、検討し直され、変容するということである。このようにして作品は「教育」を行うのだ。これが「非当事者」が百合作品を鑑賞することの、積極的な意義であるように思う。マイノリティ表象を娯楽として愛好することを、たんなるつかの間の娯楽にとどまらないものとする点で、表象とかかわることの倫理性の問いへの一つの応答となりうる。「娯楽」にそうした大きな力があることを私は信じている。またこうした自省的な再検討ができる「余地」は、さまざまな属性の人々が参与し、レズビアンの人々などの女性同性愛「当事者」による自己表象から収奪的なポルノグラフィー的表象までのさまざまな文脈が入り混じり、さまざまな欲望が拮抗的に交錯してきた、功罪ある混淆的な日本語圏の百合文化によって、一定程度確保されているように思う[4]。

だが、こうした抽象的議論「のみ」による発話は、それ自体をすぐに否定し去ることは難しいために、一方的な「弁明」ないし「理論武装」として機能してしまうだろう。またそれは、一般性を装うことにより、批判を受けそうになったら誰でも使える「カード」として機能してしまうだろう。むしろ「巧妙に予防線を張ることで、百合愛好にたいする批判を封殺する」機能をこそ、強くもってしまうのではないか。発話行為が構造的にもってしまうこうした問題は、言葉を重ねるほどに強化されるきわめて恐ろしいものであり、かつ、それ自体は解消できそうにない。しかし、記述に具体的な肉付けを行えば、ある程度抵抗することができるのではないかとも思う。すなわち、ある作品の言語世界と出会うことで、おのれの言語世界が「クィア的観点」から問われ変容した、私に固有の「教育」のさまを、一定の文章量を費やし具体的な「自伝的」記述として示せば、そうした記述自体をふたたび批判的に吟味できるようになるだろう。つまり批判を封殺するばかりではなく、新たに開くことができるだろう。ミッションに「徹底的に作品に即して」と書いたのはそのためである。そうした言語世界たちの対決をもたらす作品は「大規模な作品」である必要があるように(私の場合は)思われ、私はおのれを変えた作品、『ガルパ』を選んだ[5]。数百万字という規模の作品にたいして数十万字で応答し、批判的吟味へと差し出す。それが私の取る道である。

ここで私が言っているのは、「非当事者」が百合を愛好することを通じて、「クィア」概念──それがカテゴリー的なアイデンティティを示す概念であれ、非カテゴリー的なそれであれ──へとおのれを同一化 identify する、ということとは異なる。「百合のファンは、そうであること「自体」によってクィアとなる」といった主張は、私はしない。そうした理路を試みる人もいるだろうし、強く否定はしないが、そうした同一化は、「クィア」という言葉を使い、そのアイデンティティを、大きな苦難とともに名乗ってきた人々の歴史を奪うことにならないか、という懸念があることは書いておく。私としてはあくまでも、「クィア的「観点」」を立てて、そこからおのれのあり方が問われ、変容するという態度を堅持したい。それを「クィア的実践」と呼ぶこともあるいは可能かもしれないが、私はなるべく回避したいし、少なくともそれは個別具体的な、「自伝的」な分厚い記述とともに主張されるべきだろう。それにしても、そんな「クィア的「観点」」などというものを、それはどこまでも他者のものであるにもかかわらず、どういう権利があって、またどのようにすれば、私は少しでも持ちえるというのか。というか、絶対に持てないという前提のもとで、しかしどうするのか。そうした方法論的問題についても、私は別途、検討することになる。

またそうした理論的問題や、言語上に起こった変容だけではなく実践的に、おのれの欲望を「クィア的観点」から問うた結果、自分に生活上、どのような変化が起こったかを直接語ることも必要であるように思われる。こうした自己開示は、私の目的の達成のためには避けられない(繰り返すがこれは、ファンの誰もがおのれの事情を自己開示すべきだということではない。開示したくないことはしなくてよい。私はおのれの目的にとって必要だと考えるからするのだ)。とにかく必要なのは、「当事者」の人々も含めた批判的な視線へとおのれのすがたを晒すことである。

えっ、露出魔ですか?

違う、と言ったところで読者の方には私を信じる理由がない。そこで、作品記述と自伝的な記述を、混ぜないことを約束しておく。自伝的な記述をおこなうときは予告し、記事レベルで分離し、見たくない読者の方が回避できるようにする。

[2] このことを嫌って「批評(家)」の語・肩書きの名乗りが避けられることも多いのではないか。代わりに使われるのは、評論(家)/書評(家)/レビュー(ワー)/ライター、また翻訳もしている方は翻訳家、等々。そうした状況を承知したうえで、私はあえてもっとも一般的な意味で「批評」の語を使う。私がもっともすぐれた批評実践を行っていると思う人々のほとんどは「批評(家)」と名乗ってそれを行っていない。

[3] (2022/9/16追記)「社会構造」が、おのおのの事情を無視して発言を要請する、というのはよいことでは絶対にない。だが他方、「おのおの事情があるから……」という理由で、「誰も何も態度表明しない、しなくてよい」という開き直りが普通になるのも望ましくない。しかしまた、後述するように誰かの「態度表明」が批判を封殺するようなものであってはならないし、ましてや誰でも使える「カード」のように機能することも避けなくてはならない。しかしまた、「権威をもってはいけないので……」という理由で「態度表明」を行わなくてよいとするのは間違っている。という、こうしたジレンマのなかで誰かが、針に糸を通すような困難な道を行き、言説を紡がなければならない。

BLの「非当事者」ファンに対して向けられてきた批判を思えば、百合の「非当事者」ファンに対しても批判がやがて向けられることは確実だと思う。なお常識(となるべき)であるが、BL文化と百合文化の参与者の層は、単純にジェンダー等を反転したものではまったくない。加えてジェンダー非対称性もあるので、批判のかたちも相当異なったものになると予想している。もちろんそれにファンの立場から応答する言説もまた、BLの場合とは異なるものにならざるを得ない。百合に関してこれまであまり批判が顕在化してこなかったのは、発言の機会の問題もけっして無視できないが主にはジャンルの規模の違いが理由だと思うので、2010年代後半以降の百合文化の爆発的な拡大を鑑みるに、明示的に批判がされるようになるのは時間の問題であるように思う。そのときにどのように応答しうるのか。

この記事シリーズは、上述のジレンマをはじめとする、百合について発話することのさまざまな困難を意識しつつ、応答として差し出すために書いている。必要だと思うから書く。これを書くことが、良いことであってほしい。害毒をもたらさないといい。あと、こういうものを書くことによって「論者」として注目を浴び、打って出てやるぜ、みたいな野心は本当に一切ないことを明言しておく(それは先に述べた言説の「偏り」を助長するゆえに、むしろ拒む)。私がみずから定めた行動規範によっても、そういうことはありえないようにしている。ただ、これがこの世に存在していてよかった、こうした言説が紡がれていてよかった、と思っていただけるようなものにしたいと思う。私の望みはそれだけである。(追記終わり)

[4] (2022/9/27追記)しかしこのように(特に私みたいな者が)言うことには二つの危険がある。第一に、「功罪ある」と書いたが、その「罪」の部分を軽視することになってしまう。たとえば、おのれがレズビアンであることを自覚しつつある登場人物が、インターネット検索を通じて「収奪的なポルノグラフィー的表象」を見てショックを受けるという経験について、ゆざきさかおみ『作りたい女と食べたい女』2(KADOKAWA〈it COMICS〉、2021年)の16話に描かれているのを見よう。「レズビアン」という語がアイデンティティを指すものであるにもかかわらず、こうした歪んだ状況にあることは明確に「罪」であるだろう。第二に、このような「日本の百合文化の特質」を語ることが、「「反ポリコレ(外圧)」のもとに結集する表現の自由ナショナリズム」と容易に結びつくということである。述べたような混淆性は、日本の百合文化のみによって可能になるわけではない。日本語圏以外でも別のしかたで可能だと思う。そうした各地域・言語・文化 etc. のyuri文化について比較文化的な方法による考察が行われるべきだが、私の能力を大きく超えるし、それをする権利が私にあるとも思えない。いつか世界のどこかで、しかるべき人がそうした仕事を試みていたら、力になりたい。(追記終わり)

[5] 他の選択肢としては、これもまた私に大きな影響を与えたアニメ/ゲーム〈プリパラ〉シリーズがあった。時系列的には〈プリパラ〉のほうが先行している。だが〈プリパラ〉シリーズについて私が本格的に書くのは、2020年代後半になるだろう。それまでに〈プリパラ〉シリーズはその(『プリパラ』3rd season後半~『アイドルタイムプリパラ』で、私に幻滅をもたらした)問題点も含めて一通り検討され、そうした問題点も込みで古典アニメとしての地位を得ているのではないかと予想している。

(まとまった追記があるときはここに書く。)

前置きは以上。次回の記事からは、まずアプリゲーム『ガルパ』に至る〈BanG Dream!〉プロジェクトの前史について、ストーリーコンテンツに限って記述したあと、「メインストーリー」「バンドストーリー」「イベントストーリー」をおおむね発表順に分析していきたいと思う。

うまくいきますように。■

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Written by misora100

Full-time yuri aficionado & language enthusiast(でありたい). 1992, he/him. JP/EN. https://misora100.github.io/

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