本記事では、『S-Fマガジン』2021年6月号(早川書房)に掲載された、鈴木一平+山本浩貴(いぬのせなか座)「無断と土」を紹介する。同号は特集名〈異常論文特集〉を掲げており、「無断と土」はその中の1作であった。
本記事は3回に分載するうちの1回目である。
2021/10/19追記:「無断と土」はその後、樋口恭介(編)『異常論文』(早川書房〈ハヤカワ文庫JA〉、2021年)に収録された。用語・用字に若干の修正がある。
2022/8/31追記: その後、大森望(編)『ベストSF2022』(竹書房〈竹書房文庫〉、2022年)にも収録された。〈ベストSF〉シリーズの慣例にしたがい、山本氏、鈴木氏の「あとがき」が付されている。『異常論文』版との本文の異同は、ルビが多数増えているくらいか。
「長く読み継がれてほしい」と記事に書いていたが、願いが叶いそうで嬉しい。本記事シリーズは、今後も読者の方に役立つといいと思っていますが、(言うもおこがましいですが)作品の読解が固定されることは望まないので、適度に付き合っていただけると幸いです。
この収録に対応して、記事中の出典表示を「(初出雑誌のページ番号と段/『異常論文』のページ番号/『ベストSF2022』のページ番号)」のように改めた。
後の記事で詳しく書くつもりだが、ここから作品に興味を持ってくださる方がいるかもしれないので、最初に短く、作品紹介と私の評価を書いておく。
「無断と土」は、架空の美術・演劇団体LSPSで活動した詩人・菅原文草の詩とそこからn次創作が派生していくさまを、シンポジウムの口頭発表および質問者4人 VS 発表者による質疑応答という形で描き出す短編小説である。さらにクレジットには「いぬのせなか座」というグループ名もあるから、語られる内容・語りの形式・制作コンセプトという3つのレベルのいずれにも集団制作性が響いていることになる。そしてその集団制作性が大きな軸になって、口頭発表で扱われる諸テーマを緊密に結びつけている。
天皇制、ホラー、日本の詩歌固有の「〈喩〉」といった、口頭発表内部の議論(本記事ではその再構成を試みる)をどこまで引き受けるかは慎重にならなければならない。しかし、20世紀前半から近未来に至る約100年を串刺しにして、尽きることのない追悼の共同性、ただしひとつのアイデンティティのもとに結集するのではない共同性、を描いたビジョンの射程はきわめて広く、読者は日本語を使って読み書きすることについて何事かを考えずにはいられないだろう。
上述した3つのレベルの類似性に、「n次創作」という内容レベルのなかでの複層性も加わることで、共同性と表裏一体の恐怖もまた積み重なっていく。ついには「(作中の)事実を口頭発表で語った記録」という建前までもが変容し、重なり合いは加速していく。その重なりをひとつひとつ襞に折り込んだような圧縮的文体を用いながらも、曖昧に謎めかせて興味を惹くのではなく、むしろバキバキに克明に書かれた議論や空間描写は、執拗な再読によっても色褪せることがなく、ますます光量を増していくばかりだ。
Overall — 10/10
記事を書くに至る経緯は以下に書いた。とにかく堅実に内容紹介をして読者増やしたいねということです。
(2022/8/21追記)その後起きた、樋口氏の恥ずべき行動と元の特集をどう思っていたかについて、後出しするのはたいへん卑怯なことではあるのだが記事に加筆した。「2022/8/20追記」とした部分。
「無断と土」(以下、「本作」)の構成を示す。まず、「A」「B」という見出しとともに、2つの詩が提示される。その後、「0」(便宜上「第0部」と呼ぶ)から第4部までシンポジウムの口頭発表原稿、ないしレジュメという体裁の文章が続く。そのなかで、冒頭の「A」「B」は口頭発表の付帯資料だったことがわかる。第4部が終わると「質疑応答」に移り、質問者1~質問者4と発表者のやりとりが記述される。最後に作者からのメッセージと取れる、しかしそれだけでもない「ト書き」が置かれる。
口頭発表では、架空の詩人や架空のVRゲームをめぐる事実について記述されると同時に、天皇制、ホラー(恐怖)、そして「〈喩 figure〉」(102上/571/231)といった事柄について論じられもするから、読者はそれらが絡まり合った記述を整理しながら読まなければならない。このことが本作の難解さを生んでいる。したがって本記事では読者の助けとするため、まずフィクションとして構築された作中事実をまとめ(第1節)、次に口頭発表の議論を内在的に再構成する(第2節)。最後に本作が小説として何を達成しているか検討する(第3節)。
当然ネタバレ全開であり、できれば自分で作品に目を通してから読んでいただきたいところだ。しかし歯が立たないと感じた方は本記事を先に読んでいただき、補助線として使っていただくことも可能である。後述するが、本作に関していえば、ネタバレは鑑賞体験をむしろ向上させると思うからだ。とにかく多くの人に作品を読んでほしい。というモチベーションで書く。
目次
第1節 作中事実
第2節 口頭発表の議論
2.1 指針となる2つの疑問
2.2 抒情=怪談空間(Q1)
2.2.1 「抒情」と「擬空間」
(以上、本記事)
(以下、予定)
2.2.2 怪談空間
2.2.3 抒情=怪談空間のダイアグラムとしての『WPS』
2.3 天皇制(Q2)
2.3.1 天皇制と集団制作
2.3.2 天皇制のダイアグラムとしての『WPS』
2.4 おわりに
第3節 小説としての達成
3.1 口頭発表というスタイル
3.2 口頭発表を聞き取る外部
3.3 作者のコンテクスト
3.4 モデル、レイアウト、ダイアグラムによる思考
3.5 おわりに
第1節 作中事実
時系列順にまとめていく。架空の固有名詞には、初出時に「*」を付す。
1900年生まれの詩人・菅原文草*は、1923年3月に美術家の張重根*らとともに美術・演劇団体LSPS*を立ち上げ(110上/588/246)、日本各地から収集した怪談をもとに多数の改行詩を制作した(111上/590/248)。しかしLSPSは内部抗争に見舞われ、関東大震災後に破綻する(115下/602/258)。
故郷の宮城に戻った菅原は、1933年に急性アルコール中毒で倒れてから1949年に餓死するまで「コタール症候群」(114上/599/255)に似た症状に悩まされる。この時期、菅原は関心を「天皇ないしはそれを中心とする戦時ナショナリズム」(114下/601/257)へと移していき、詩や、それを戯曲として上演化するための大量の構想メモを未発表のまま残す。
時は流れ、2019年にそれらが新資料として発見されると、匿名の何者かが菅原の詩をもとにして新たな詩(鈴木一平はその形式を「ルビ詩」と呼ぶ[1])を作り、2021年のアンソロジー『SISEN EGNO EN*』上で、菅原の名を冠して発表する(119下-120上/612/267)。
2023年2月、日本のインディーディベロッパーPhantom Island Games*が菅原らLSPSの失敗を題材とするゲーム『Permission and Soil*』(以下、『PS』)を制作し、配信プラットフォームSteam上で公開する(105下/578/237)。『PS』はVRパートを備えており、「怪談の上演」(106上/579/238)をプレイすることができた。しかし、そのデータに「昭和天皇の歪んだ顔面の画像」(106下-107上/581/239)が含まれていたためにゲームは炎上し、販売が停止される[2]。
同年9月、『PS』のVRパートのデータが違法アップロードサイト上に見つかる。この海賊版データは、繰り返しプレイするうちに、前回にプレイした際の振る舞いが次回のプレイにフィードバックされる形でデータ自体が累積的に変化していくというバグを含んでいた(107上-下/582/240)。
2028年、TikTokユーザーTender Angel*(=VTuber・maYo*)が開発者不明のVRゲームのプレイ動画をアップする(104下-105上/577/236)。翌2029年にWebサイトBlind Club*にこの動画のURLが投稿されたことでゲームは注目を集め、さらにcraZZZyfish*[3]が『Without Permission and Soil*』(以下、『WPS』)と名付けたゲームデータのURLを共有する。(105上/577-578/236)[4]。
『WPS』は『PS』のVRパートのデータを基礎とし、上述のバグを用いて生成されたとみられ、(ライターKanae Shirai*の指摘にしたがう口頭発表の発表者によれば)そのマップは菅原の上演化構想メモの一つと「大部分が一致している」(117下/607/262)。一方、『WPS』には『SISEN EGNO EN』上に発表された「ルビ詩」が挿入されていた(119下/612/267)。つまり、発表者に従うなら「菅原が残した上演化構想メモ」「匿名の何者かによるルビ詩」「『PS』のVRパートのデータ」の3つが『WPS』へと収斂したことになる。
2031年、内閣府主催で東日本大震災二〇周年追悼式が開催される(126上/625/279)。おそらくそれからさほど年月を経ないうちに、シンポジウムで口頭発表が行われる。
[1] 「ルビ詩」を含む鈴木一平氏による詩集『灰と家』(いぬのせなか座、2016年、同人誌)は「いぬのせなか座」オンラインストアで購入できる。
[2] こうした顛末は、実際の出来事──台湾のディベロッパーであるRed Candle Gamesが制作したホラーゲーム『還願:Devotion』(2019)が、習近平・中国国家主席を揶揄するミームのデータを含んでいたために炎上し、Steamでの販売停止に追い込まれた──を念頭に置いて創作されているだろう。
[3] 作中にはcraZZZyfishを「TikTokチャンネル」とする記述(104下)と「YouTubeチャンネル」とする記述(105上)とが混在している。どちらかが誤記ではないかと思う。(2021/10/19追記)『異常論文』にて「YouTubeチャンネル」(576、577)に統一された。
[4] (2021/10/19追記)動画サイトを通じて広がる、制作者不明のホラーゲームをめぐる「情報群」の実例として、山本氏は「無断と土」発表後に『文藝』上で、Sad Satanを紹介している。鈴木潤+ふぢのやまい+山本浩貴(いぬのせなか座)「凝視する〈怨〉作品ガイド30 高解像度版2021」『文藝』2021年秋季号、河出書房新社、253ページ。
第2節 口頭発表の議論
2.1 指針となる2つの疑問
口頭発表の目標は、第0部のなかで言及される。「本発表は『WPS』が、それら〔2019年に発見された〕菅原の詩や上演プランのVRゲームというかたちでの具体化を試みた作品であることを指摘していく」(103下/574/233)というのだ。前記の通り『WPS』のマップは菅原が遺した上演化構想メモのひとつと類似しているが、それは「明らかな作者の意図の存在」によるものだというのが発表者の主張である。発表者がなぜこのような主張をするのかは、本節の最後でもう一度検討する。
続く部分では「発表の構成は以下の通りである」(104上/574/234)として第1部~第4部の概略が示されるが、特に後半部を一読して理解することは不可能だろう。それでも第3部に関する箇所は、口頭発表の議論を内在的に再構成するための読解の指針を与えてくれる。すなわち
(Q1)「『WPS』の視覚と音のレイアウトは、菅原が模索した、日本における詩歌が高機能な型として獲得してきた抒情=怪談空間の様態とその物象化の試みのひとつである」(104上/575/234)とはどういうことか。
(Q2)「『WPS』の視覚と音のレイアウトは〔…〕高性能な集団的制作者像としての天皇ないしはそれを支える天皇制の奇形的発達をめぐる具体的遂行=上演例でもある」(104上/575/234)とはどういうことか。
という点を理解することが、読者にとって一応の目標となるのだ。以下、この2つの疑問に答えるため、それぞれをさらに要素分解して読解していく。ポイントとなる箇所を引用し、パラフレーズしたり注釈を加えていくやり方で進める。
2.2 抒情=怪談空間(Q1)
(Q1.1) 日本の詩歌が「抒情=怪談空間」を「高機能な型として獲得してきた」とはどういうことか。
前提として、発表における「抒情」という語の用法を確認すると、「感覚器官の連合をめぐる極めて抒情的なバグであり」(103上/572/232)という箇所が見つかる。ここから「抒情」は「感覚器官の連合」(複数の感覚器官による知覚の統合)に関するものだといえる。さしあたり、両者を同一視して読み進める。
そのうえで「抒情=怪談空間」とあるが、「抒情」や「怪談」はどのように「空間」をなすとされるのか。一つずつみていく。
2.2.1 「抒情」と「擬空間」
まず「抒情」に関して発表者は、和歌の「枕詞」について論じる吉本隆明を引いて次のように述べる。
【引用1】意味の重複する言葉の〈畳み重ね〉は、単に単一の意味のもとで束ねられ解消されるのではなく、テクスト表面においてその二つの言葉をあえて並べ表現した表現主体(が備えているべき歪な感覚器官の連合)こそを遡行的かつ擬似的に読み手のうちに立ち上げさせるのである。そこで読みが演じさせられるのは、継時的な知覚処理ではなく、テクストの共時的な「擬空間化」だ。(122上/617-618/272)
意味の重複する言葉が繰り返し使われるとき、読者のなかにはその繰り返しを行った表現主体に備わっているはずの「感覚器官の連合」(すなわち「抒情」)が立ち上がり、このときテクストは「擬空間」となるというのだ。なお「継時的〔diachronic〕〔…〕ではなく〔…〕共時的〔synchronic〕)と言われることからもわかるように、ここで「空間」という語に託されているニュアンスは、「流れていく時間とは異なる」というようなことである。
この記述が登場するのは『WPS』のなかの「(菅原を騙る、匿名の何者かによる)ルビ詩」について論じる文脈なので、その内容を見ておく。「ルビ詩」のうち明治天皇の作に由来するもの(冒頭の「A」)のなかでは、「夜空」「夜景」という意味の重複する言葉が、それぞれ「消えない足音」「しずかな」という互いに矛盾した意味をもつフレーズに後続するかたちで現れる。これにより、互いに矛盾した表現たちが、「読み手のなかに強制的に同居可能な場を確保する」。こうした「同居」(共時的!)によって「空間」が「切り開かれ」るとともに、「をのころしま」を「ききと」るという動作を可能にする「肉体」が読者のなかで立ち上がる(120下/615/269)。ここで現れる「肉体」というキーワードは、「感覚器官の連合」すなわち「抒情」の帰属先、とみればよい。
言葉の並びによってそれを可能とする感覚器官の連合(抒情)を備えた肉体が事後的に立ち上がる、というこうしたアイディアの要となっているのが、第0部で導入される「〈喩 figure〉」(102上/571/231)という本作独自の概念である。
「〈喩〉」については、見慣れない言葉だという方もいるだろうから、議論の内在的な再構成をめざす本節にとって中心的な話題ではないが、参考のために2点補足しておく。
- フランス語figure(フィギュール)の辞書的な意味は、一つは「喩」すなわち「文彩」(隠喩をはじめとする修辞技法)だが、ほかに「形」や「顔」といった意味もある。すぐ後に出てくる「prosopopée〔活喩法、プロソポペイア〕」(102下/571/231)は、説明される通り「死者」「不在者」「非生物」(102上-102下/571/231)に声を与える(≒擬人化する)文彩の一つであるとともに、古典ギリシア語の「顔+作る」を語源とする点で、figureと縁が深い語だともいえる。活喩法については以下を参照。ブリュノ・クレマン、郷原佳以(訳)『垂直の声:プロソポペイア試論』(水声社、2016年)。(2021/10/19追記)その後気づいたが、山本氏は、2018年に書かれた別の文章のなかで、(2回目でも言及するポール・ド・マン「摩損としての自叙伝」とともに)まさにクレマンによる活喩法に関する議論を引いていた!
- 「〈喩〉」の概念は、本作の注30(127欄外/629/281)に挙がっている、平倉圭『かたちは思考する』(東京大学出版会、2019年)との相互影響のもと練り上げられたものだろう。「相互」というのは、『かたちは思考する』のなか、figure概念に関する文脈で山本浩貴+h「新たな距離:大江健三郎における制作と思考」が言及されているからだ(33ページ)。ここで「山本浩貴+h」は山本氏と別のメンバー・h氏とのユニットである。「新たな距離」の書誌情報は以下。『いぬのせなか座』第1号(いぬのせなか座(同人誌)、2015年)、38–83ページ。
本筋に戻る。そのキー概念である「〈喩〉」だが、定義している箇所を引用する。
【引用2】或る環境内部に滞在する生物が周囲を探索することで知覚する情報群は、それぞれの肉体の抱え持つマトリクスのもとで特定の可能世界へと縮減されて初めて、その肉体にとって使用可能な場所として構成される。肉体が行なうのは断片的な情報の事後的結合による意味の新たな創造などではなく、むしろ閾値を超えた光を遮蔽することで果たす世界の彫刻であり、その手続きにおいて肉体は、或る一つの肉体における複数の感覚器官間を相互に翻訳可能とする機能を持つ共感覚的フィールドとして世界を抽象化する。この抽象化の資源こそが〈喩 figure〉である。(102上/571/230-231)
環境のなかで生物が知覚する情報群は、その「肉体の抱え持つマトリクス〔母型〕」──すなわち、肉体に備わった感覚器官たちがなす枠組み──によって「縮減され」る。そうした情報の縮減──世界の「抽象化」、いわば「世界の彫刻」を経てこそ、世界は肉体が「使用可能な場所」となるのだ。発表者が挙げる例は、視覚障害者が音によって「或る部屋の空間的レイアウト」(102上/570/230)を把握する「マトリクス」を持つ一方、晴眼者はそうした「マトリクス」を持たない、というものである。晴眼者も音の情報を受け取るが、その縮減のしかたが異なり、それゆえに世界の使用のしかたが視覚障害者とは異なるということだろう。
世界は、こうした情報の縮減の結果、複数の感覚器官から得られる情報が「相互に翻訳可能」な「共感覚フィールド」となるという。晴眼者の例でいえば、目と耳から受け取った情報の整合性をとることができるというようなことだろう。肉体が感覚器官からの情報におのれの身体との調和をもたらすときに使うものが「〈喩 figure〉」である、というふうに整理できる。
【引用1】の文脈に戻り、「〈喩〉」の概念を使って「詩を読む」事態を言い直してみよう。詩という言語表現の情報を受け取ることで、読者はおのれの肉体の「〈喩〉」を用い、表現主体に備わっているべき「感覚器官の連合」(「抒情」)を「擬空間」のなかに事後的に立ち上げる、とでもなるだろうか。こうした肉体-〈喩〉-抒情-詩という系列を把握したうえでなら、『WPS』内の「ルビ詩」をめぐる次の圧縮的な記述も理解できるはずだ。
【引用3】テクストの並びが醸すフィクショナルな紙面空間、そこにおける個々の文字の座標とそれらの間の(視覚には還元できない、読みの記憶と音の構造に依存した極めて抽象的な)距離の織物を、今やはり視覚的には現前しないが読み手の肉体への強固な指示・効果としては確かに存在する抽象かつ物質的な対象物が、巻き込むようにエンコードしてはそれぞれ読み手の肉体においてデコードされ、解放された文字それぞれが(肉体との接触面において可能的に)持つ抒情が、現実には互いに引き離され矛盾したまま私の内部を場にして反響する。ここには枕詞と呼ばれる技法がかつて体現していたような〈喩〉的効果が見て取れる。(121上-121下/615-616/269-270)
「テクストの並びが醸す〔…〕距離の織物」とは「ルビ詩」のテクストがもつ意味的・音声的な諸特徴であり、「今やはり視覚的には現前しない〔…〕抽象かつ物質的な対象物」とは、上で「をのころしま」を「ききとる」とされたものをはじめとする、表現主体のものとして想定される肉体に他ならない。発表者にとってその肉体は詩から逆算されて想定されるにとどまるという意味で「抽象〔…〕的」である一方、「読み手に対して効果的な指示」(120下/615/269)である限りで「物質的」でもあるのだ。テクストを、表現主体のものとして想定される肉体が「巻き込むようにエンコードしては」読者の肉体において「デコードされ」る、といわれるとき、「エンコード」「デコード」されるのは表現主体(と目されるもの)の「抒情」である。「デコード」によって「解放された文字」が、読者の肉体に備わる「〈喩〉」の効果によって、その肉体を「場」として矛盾の同居する抒情の空間を立ち上げるのだ。
この箇所ではさらに2点指摘しておく。
- 「視覚的には現前しない」「表現主体」が読者のなかに立ち上がるというとき、想定された表現主体と読者との間に、ある種の共同性が生まれているといえないだろうか。想定された表現主体の肉体の「エンコード」と、その読者における「デコード」が2つの契機として区別されることからも、想定された他者との関係が問題になっていることが伺える。
- 発表者はことさらに「視覚には還元できない」「視覚的には現前しない」とし、「音」を強調する。発表者は視覚/聴覚の対立を設定し、ある文脈では「聴覚」を優位に置いているようだ。
ここで取り出された共同性、聴覚といったテーマは、次の部分で扱う「怪談空間」と関連するので、そちらで改めて紹介する。
【以下、次回記事に続く】