目次
第1節 作中事実
第2節 口頭発表の議論
2.1 指針となる2つの疑問
2.2 抒情=怪談空間(Q1)
2.2.1 「抒情」と「擬空間」
(ここから本記事)
2.2.2 怪談空間
2.2.3 抒情=怪談空間のダイアグラムとしての『WPS』
(ここまで)
2.3 天皇制(Q2)
2.3.1 天皇制と集団制作
2.3.2 天皇制のダイアグラムとしての『WPS』
2.4 おわりに
第3節 小説としての達成
3.1 口頭発表というスタイル
3.2 口頭発表を聞き取る外部
3.3 作者のコンテクスト
3.4 モデル、レイアウト、ダイアグラムによる思考
3.5 おわりに
2.2.2 怪談空間
では次に、「怪談」はいかにして「空間」を作るのか。まず「怪談」と「抒情」がいかに関係するかは、菅原の「抒情」にかんする考えを説明した箇所が、簡潔な要約となっている。
【引用4】菅原は〔…〕個々の言葉(特に名詞)が周囲のテクストを束ね輸送し別の地点で展開する、その収束と(遠隔地における)拡散の運動にこそ、抒情性を見出していた。そしてそれは、この私から滲み出るというよりも、複数の肉体が知覚し記憶してきたエピソードの統合と純化を通じて、まさに怪談が個々人の私的な実話でありながら同時に普遍的な構造を持つようにして実現されるものだと考えられていたのである。(112下/594-595/251-252)
個々の語は、文脈のなかに置かれ、前後の語とつながっている限りで「周囲のテクストを束ね」ており、それは「輸送し別の地点で展開」される。たとえば前回取り上げた、明治天皇の歌に由来する「ルビ詩」では、まず「夜空」という言葉が「消えない足音」とつながって現れ、そして詩の別の箇所で「夜景」として、今度は「しずかな」とつながる形で再び現れるのだった。こうした「収束と〔…〕拡散の運動」は、繰り返し使用することができるという言葉の根本的な性質に基づいているわけだ。ここで「輸送」という言葉によって、2つのレベルの事柄が同時に問題になっていることは見逃せない。すなわち
- 語の反復という、一編の詩のなかでのプロセス
- 「複数の肉体が知覚し記憶してきたエピソードの統合と純化」という、「この私」のみに帰属するのではないプロセス
のいずれもが、ここでは言及されているのだ。2つのレベルはいかにして結びつくのか。再び「ルビ詩」の批評の箇所、【引用1】のほぼ直後から引く。
【引用5】設立された「擬空間」は〔…〕詩文を読む肉体らに自身の肉体像(フィードバック機構)では記述しきれない表現の宿の気配を感じさせ、それは自らの読みに仮託したかたちで遡行的に把握されるところの自由意志の、文字列が喚起する音への転移的圧縮(landing)、輸送、自身から離れた場所での奇形化した解凍(の予感)といった一連のプロセスとして構成されるだろう。これは必然的に恐怖の情動とも結びつく。(122上-122下/618/272)
前記事で説明したように、矛盾を含んだ要素の同居によって読者の肉体に立ち上がるのが「擬空間」である。それは「自身の肉体像〔…〕では記述しきれない表現の宿の気配」を読者へともたらすという。ここで「自身の肉体像」とは、前回説明した概念である〈喩 figure〉──肉体が感覚器官からの情報を統合するために利用されるもの──にほかならない。前回確認した通り、「擬空間」の設立自体に〈喩〉が利用されているのだった。しかしこのとき、利用されている〈喩〉がいわば失敗し、それが及ばない「表現の宿」が知覚されもしているという。(ここで「宿」=場所という空間的な語が用いられている。)そうした〈喩〉の外部は、詩から逆算され想定された表現主体が、「転移的圧縮」-「輸送」-「解凍」というプロセスをたどってきているという認識として知覚される。
すなわち、個々の言葉の反復がもたらす過剰な情報こそが、その一編の詩がたんに過剰な情報を含むというにとどまらず、その言葉が読者の肉体=「この私」ではない別の場所から来た、という感覚をも生じさせるのである。ここで上述した2つのレベルが一致する。詩を読むときに〈喩〉が利用されるやいなや失敗し、拡張されることによって、読者の肉体と想定された表現主体の肉体がともに、一連なりのプロセスのなかに配されるのだ。ここで成立しているものを、「共同性」と呼ぶこともできるだろう(発表者は「共同空間」(124下/624/277)という語を用いている)。それは、誰かとともにいることを積極的に認識できるような共同性ではなく、〈喩〉の失敗という否定的契機によってのみ立ち上がる共同性である。
そうした〈喩〉の失敗と拡張が、なぜ「恐怖の情動」と結びつくのか。ここで表現主体が「自由意志」と言い換えられていることに注意しよう。自由意志をもった他者である表現者が、読者の肉体において知覚されているのである。このとき、読者のほうからも「自由意志」が収奪されていると発表者は言う。それを表しているのが次の引用箇所である。【引用2】の少し後の部分である。引用しすぎを避けるためたびたび中略しているので、ぜひ原文をあたっていただきたい。
【引用6】〔…〕生物は、探索し知覚した情報から特定の世界とそこに存在する肉体〔…〕を構成‐リプレイすることで、ようやくそこ〔世界〕に降り立つ。〔…〕その降り立ちが失敗した場合、肉体は激しい可能の洪水を前に、自らにとって不明な肉体が自らの位置する座標から離れた場所で、しかも自らの肉体の感覚器官と一定程度連携した形で多数存在しうるという圧を、強い質感とともに受ける。〔…それには〕多くの生物にとっては恐怖という情動が充てがわれることだろう。そこで恐怖とは、〔…〕また一方では、世界によるこの私の自由意志の収奪、(この私とは異なる場所に私が現れるという意味での)分身の発見、(この私において異なる私が現れるという意味での)肉体の役者化=世界の上演化としてイメージされる。世界を単一に束ね得るような(主に視覚的な)宿が無く、不確かな(主に聴覚的な)ノイズばかりが由来も定まらず反響し、起こる世界の変容あるいは複数化。(102下-103上/571-572/231)
前記事で書いたように、生物は〈喩〉を用いることで、感覚器官から得た情報を取捨選択し、「世界の可能性」(102上/571/230)を縮減することによって、その肉体と情報とを調和させることができるのだった。そうした世界への「降り立ち」がうまくいかなかった場合、つまり平時の肉体と結びついた〈喩〉が破れた場合、その肉体はおのれの外部に、おのれの感覚器官と無縁ではないような肉体が存在しうるような感覚を受けるという。そのために「恐怖という情動」を覚えるというのである。その恐怖の感覚における現れ方として、発表者は
- 「自由意志の収奪」が行われること
- 「この私とは異なる場所に私が現れる」こと
- 「この私において異なる私が現れる」こと
を挙げる。ここでも「宿」「場所」という空間的な語が用いられているとともに、発表者にとって視覚と聴覚は、単に並列される2つの感覚ではないことがわかる。「音と恐怖と〈喩〉の持つ関係」(103上/573/232)が発表の主題となっているように、とりわけ聴覚こそが、恐怖を喚起し、空間のなかに「多宇宙=可能世界そのものの歪な擬人化」(103上/572/232)を発生させるのだ。
こうした恐怖の空間性は、詩から演劇などへの「アダプテーション」(103上/574/233)=「上演」(116上/606/262)を伴うことによって、すなわち「(複数の表現形式を越境する)メディウム」(110上/588/245)を用いることによって、明示的に空間に配されることになる。このことは集団制作性のテーマと関連するので、2.3節で触れることにしよう。
ともあれ、聴覚が現出させ、恐怖を引き起こす空間──怪談の空間は、〈喩〉のプロセスによって現出するものであるために、同時に抒情の空間でもある。
では最後に、そうした「抒情=怪談空間」は「日本の詩歌」とどのように関係しているのか。発表者はその関係を、折口信夫と吉本隆明の「枕詞」をめぐる議論を引いて説明する。とりわけ吉本は「枕詞のなかに日本の詩歌にのみ見られる〈喩〉の原初の地平を見る」(122上/617/272)とされるから、発表者の議論にとっても特権的な参照対象である(【引用1】にすぐ先立つ箇所)。折口と吉本を引き継いで発表者が注目するのは、枕詞の「意味としては自らの係る語句と指す対象が重複するため無価値」(121下/616/270)であるという性質だ。発表者によると折口は、「具体的な土地の歴史とそれを伝えてきた言葉の音の、極度の二重的圧縮体として枕詞を捉え」(121下-122上/617/271)ている。「土地の歴史」という指示対象と、それを表現する「意味としては〔…〕無価値」な音(聴覚的情報)とのセットとして枕詞を見るわけだ。枕詞には指示対象という「単一の意味」(122上/617/272)を超えるものが備わっている。そうした剰余である聴覚的情報によって伝えられるのが、想定された表現主体の肉体に備わった「〈喩〉」なのだ。
(2021/11/17追記:こうして「土地」に、想定された表現主体の〈喩〉が、音を通じて結びついている事態が、折口にとっての「遠処にある動物・植物・鉱物が、人の霊魂を保有してゐる」という「〈生命の指標(らいふ・いんでくす)」に他ならない、というのが発表者の主張である。)
これで当初の目標だった問題が答えられる。
(Q1.1) 日本の詩歌が「抒情=怪談空間」を「高機能な型として獲得してきた」とはどういうことか。
(A1.1) 日本の詩歌は、枕詞をその範例として、過剰な聴覚的情報を通じて、想定された表現主体の肉体に備わった〈喩〉を伝え、読者の肉体の中に共同性とともに恐怖を引き起こす空間を現出させることができるということ。
2.2.2の補足
本節を締めくくるにあたって、本題ではないのだが「元ネタ」(かもしれないもの)について1点指摘しておきたい。上述してきたような「figure(〈喩〉)の利用はただちにfigureの失敗につながる、にもかかわらずそれでもfigureを利用しないではいられない」「読者はテクストのなかにfigureとして表現主体を見出さないではいられない」といったアイディアには、晩年のポール・ド・マンから着想を得て換骨奪胎した面があるのではないかと思う。山本氏はド・マン「摩損としての自叙伝」(山形和美(訳)『ロマン主義のレトリック』所収、法政大学出版局〈叢書・ウニベルシタス〉、1998年)を詳細に読んだ形跡がある。(2021年7月25日閲覧。)
「摩損〔de-facement; 顔の除去〕としての自叙伝」をはじめとして、生涯の最後の数年間、ド・マンは「顔 face/figure」という形象を中心とする諸概念について集中的に論じた。比喩形象 figureに加え、「無断と土」でも言及される活喩法 prosopopeia、また擬人法 anthropomorphism、頓呼法 apostrophe 等だが、なかでも活喩法が重要視される。個人的には、山本氏と同世代の者として、2010年代日本におけるド・マン再評価の動向をともに経験していたのだなあと感慨深くなったところだ。それにしてもド・マンが今後どれくらい読まれていくかは、もともと知られてはいたが近年改めて指弾されることになった渡米前後の行状ゆえに、予断を許さないように思う。これについては巽孝之『盗まれた廃墟:ポール・ド・マンのアメリカ』(彩流社〈フィギュール彩〉、2016年)を参照。
(2021/10/19追記)1回目で触れた山本浩貴+hによる大江健三郎論「新たな距離」でも「摩損としての自叙伝」が引かれている。著者の論述を(自信がないがあえて)要約すれば、ド・マンが示唆したような、それを通じてあらゆるテクストが不可避に自伝的性質を帯びることになる「比喩的回路」を、大江はその擬似私小説において「破綻寸前まで加速させていく」ことによって──具体的には「人物同士の結合」だけでなく、人間と「土地」等の「事物」との結合をも利用することによって──「「語り」=文章所持者」ひいては「小説制作者」を「新しい人」として発生させるというのだ(「新たな距離」72–76ページ)。ここには、喩のはたらきを通じて発達する制作者、土地と喩の関係、といった「無断と土」でも展開されるモチーフがみられ、2015年から現在に至る思考の連続性の一端を窺うことができる。
2.2.3 抒情=怪談空間のダイアグラムとしての『WPS』
続いて、次の問題を考えよう。
(Q1.2) 以上を踏まえたときに、『WPS』のレイアウトが「抒情=怪談空間の様態とその物象化の試みのひとつ」であるとはどういうことか。
前提として、ここで「物象化」は「本来具体物としては存在しないものを、あるようにすること」くらいに理解する。別の箇所では「具体化」(103下)とも書かれる。発表者は『WPS』を、無形の概念である「抒情=怪談空間の様態」に形を与えた表現物、すなわち「ダイアグラム」(122下/618/272)として捉えようとしている。
(2021/10/19追記)記事発表当初、この「ダイアグラム」のところを私の用語法で「アレゴリー」としていた。しかしマップのレイアウトと「抒情=怪談空間」の関係を「アレゴリー」と言うのは、いささか不当な単純化かもしれないように思われ、「ダイアグラム」に改めた。
『WPS』のプレイ体験は、まず「一周目」のプレイに関して、117上~120上/606-613/262-268にかけて説明されたあと、そのフィードバックを受けて変化した「二周目」のプレイに関して、122下-125下/618-624/272-278にかけて記述される。このうち「抒情=怪談空間の様態」のダイアグラムとなっているといえる箇所は「二周目」のプレイのなかに見いだせる。まず
- 過剰な(とりわけ聴覚的)情報が〈喩〉による調和を失敗させることによって恐怖が喚起される
という要素は「プレイヤーの足音は常に数秒遅れて鳴り」(122下/619/273)、「足音は複数の方向から多重的に聞こえるようになる」、「過度に明るい曲が数秒間のループとなって流れる」、そして「こちらに向かって何かを鳴らしながら駆けてくる」(123上/620/274)といった聴覚的表現によって具体化される。
また二周目のプレイ体験のなかには、〈喩〉の失敗の際に生じる「おのれの外部に、おのれの感覚器官と無縁ではないような肉体が存在しうるような感覚」を表すような箇所がみられる。
- 「自由意志の収奪」が行われること
→「そこで急に視界の奥行きが反転する」「すぐに視界は再度変容し」「そこでプレイヤーが宿るキャラクターはしゃがみこんで何かを採取する身振りを行なう」(123上/620/274)というように、プレイヤーの意志によらず画面が遷移し、キャラクターが運動する。 - 「この私とは異なる場所に私が現れる」こと
→「遠くから人体を見つめているが、手がこちら側に浮いている。というより自身の胴体がなく手だけがあちらから提供されているようなのだ」(123上/619/273-274)というように、プレイヤーキャラクターの肉体の外部に、しかしそれと無縁ではない(手と胴体という関係をもつ)別の肉体が出現する。 - 「この私において異なる私が現れる」こと
→「もともとの視界と変容後の視界がふたつのレイヤーとして雑に重ねられたような状態になる」(123上/620/274)と、プレイヤーキャラクターの視界が複数化する。
空間のなかに発生する共同性についてはどうか。
- 〈喩〉によって統合しきれなかった情報が、別の「肉体」として知覚されることによって、ある種の共同性が発生する
これは、「こちらに向かって何かを鳴らしながら駆けてくる」人体によって具体化されている。発表者はこのオブジェクトが立ち上げる共同性について次のように説明している。
【引用7】二周目に入り多重的に霧散していた音情報が、いったん(その因果の前後関係こそ一方が一方に強いられたものであれ)プレイヤー自身と類似する運動を行なう視覚的対象を宿にして梱包され、ここでもどこかからでもなくまさにそこより発せられていると強く感じられたとき──あたかも音声だけでもってそれまで構築・伝達されてきた古典語や古典詩歌が、初めて文字によって記されたときのように──表現における〈喩〉はこのゲームにおいて幾つかのレイヤーを跨ぐかたちでその内部に再設定されることになる。即ち「作品の運命の内部につつまれながら、この運命を客体視できる位置にある」存在を、〈喩〉が自らの宿れる対象としてオノずから準備するのである。(124上-124下/623/276)
上述したように、二周目のプレイでは、さまざまな由来のわからない聴覚的情報が〈喩〉を失敗させていた。そうしたノイズのような聴覚的情報が「プレイヤー自身と類似する運動を行なう視覚的対象」という「宿」から発せられるものとして同定されるとき、〈喩〉の帰属先はその肉体へと「再設定」される。つまりここでは、〈喩〉の失敗から、外部の肉体への〈喩〉の拡張までのプロセスが記述されている。詩の読解の場合に引きつけて言い換えれば、言語表現がもつ過剰な聴覚的情報が、読者の肉体に備わった〈喩〉を失敗させたあと、想定された表現主体の肉体という「宿」へと再び結び付けられる、ということだろう。吉本隆明を引いて言及される「「作品の運命の内部につつまれながら、この運命を客体視できる位置にある」存在」とは、『WPS』においては「作品の内部に立ちながらそこで走る因果関係を外から語り駆動させる呪音としての声を、自らの肉体の傍らで手にしている」(124下/623/276)者だと発表者はいう。これは、作者でありながら同時にキャラクターでもあるような、フィクションのレベルを跨いで(「幾つかのレイヤーを跨ぐかたちで」)現れる、想定された表現主体の肉体といえるだろう。
こうして『WPS』のなかで、「抒情=怪談空間」の効果として、プレイヤーとは別の肉体が空間の中に具体化されることになった。そしてその肉体が立てる音は「他の〔…〕プレイヤーにも聴取され、反映されたものとしてある」(124下/623/276)ために、この空間の中に共同性を立ち上げる。それは表現主体たちがなす共同性であり、したがって話は、次節で取り扱う集団制作性へと繋がっていく。
【以下、次回記事に続く】