Weekly Report — 2021/06/05

misora100
Jun 5, 2021

--

相変わらず元気がないが、ようやく少しは知的活動ができるようになってきた。鍵への籠もり期間、約6年にわたって受けてきた恩を返すつもりで、公開ブログを始める。何かをpublishするというのは恐ろしいことだ。おのれが分別を失わないといいと思う。と祈るだけじゃなくて強い決意で分別を守るのだ。

詳述しないが私は2010年代前半に一度失敗しているから、本当はもう公開インターネットをやる資格など無いと思っている。それをあえてやっているので、本ブログをはじめ、一切の活動は他者への貢献を第一とし、私利私欲のために行わない(何をするにも純粋な「持ち出し」になるようにする)。そしてまた何か失敗した場合、次はない。と最初に明記しておく。

(2022/8/1追記)ブログを立てて1年と少し経った。当初、毎週短い批評とエッセイを書き続けようという野心があったが無理であった。悲しいことだ。振り返りみるとパフォーマンス出てない時期が長すぎ。こんなことでやりたいことが成し遂げられるのか……。

この間に、私は2021年2月にTwitterで起き2022年2月まで継続した個人を標的としたなりすまし事件のことがずっと頭から離れなくなってしまい、2022年6月にTwitter運用を停止しなければならないと判断するに至った。この事件にかんする疑念から、詳述できないが私に非がある発言をしてしまったのだ。正直、十数か月にわたり同じことにこだわり激怒し続けたことによる、人格の悪い方向への変容を感じる……。それで同人誌などの告知を除いて一時休止(~2024年6月)することにしました、といったんは掲げたが、ブログ開始時の冒頭部↑で、分別を守れなかったときは「次はない」と書いているのだから、もうTwitterへの復帰はしないと考えるべきか。とにかく、Twitterの代わりに個人サイトを拡充していった。世の中では、オープンなSNSからDiscord等を拠点としたクローズドコミュニティへの移行が一段と進んだように感じる。Twitterの環境が耐え難いものとなっているのだ。私としてはこうした情勢を踏まえ、次のような規律をおのれに課していきたい。

  1. 私(=misora100/髙橋身空/髙橋実理)は、おのれの「小説、エッセイ、翻訳、批評、日記等を書き、publishする」活動にかんして、原則的に一人でのみ活動する。特定の目的のために時限的に設立された、明確なメンバーシップのある読書会やライティング・サークル(『文体の舵をとれ』合評会等)に参加することはあっても、原則的には一人で活動するし、不要な非公開コミュニティへの参加や、(二人の古い友人を除き)個人的な連絡は慎む。ものを書く方と、必要以上に交流を持たないようにしたいということである(ごめんなさい)。
  2. 私が書いたものをpublishするのは、同人サークル「金星のこととか」としてのみである。発表の場も、個人サイト上で列挙している制作物の発表場所と、本サークルの同人誌に限られる。それ以外、いかなる場にも文章等を発表しない。同人誌については、(製本・印刷を除き)基本的に一人でのみ制作する。ただし〈大きな本〉でのみ、デザインやイラスト等を他の方に依頼するかもしれない。
  3. 「1」「2」の唯一の例外は、「髙橋実理」として「小説の翻訳」を発表する場合である。これに関してのみ、「金星のこととか」内での一人での活動にはこだわらないし、コミュニティに(受け入れていただければ)継続的にコミットしようと思う。(とか言ってこの活動はまだ影も形もない。まだやってないのに掲げるのは恥ずべきことだ。だが今後の規律である以上、事前に書いておく必要がある。)
  4. 2022/9/26追記:将来やりたいことを真剣に考えた結果、「髙橋実理」として「批評の翻訳」を行う場合も、「1」「2」の例外規定に追加したいと思う。主にスタニスワフ・レムのそれを想定しているが、ただこんな例外つけてしまったらほぼなんの翻訳でもどこにでも公表できると言っているに等しいではないか。ので、本項は「非常に抑制的に使用する」(5~10年に1回とか)とする。

スローガン的にいうと「書き物にかんする孤立主義」ということになる。こういう規律を事前に表明しておくことで、「こいつ(=私)はあいつと裏で関係・結託しているのではないか」「陰口叩いてるんじゃないか」といった疑心暗鬼から生じうるトラブルを避けたいと考えている。そうした疑心暗鬼を生みやすい状況になっていくと思うので。

以上のことは、私が人間嫌いな性分だとかコミュニケーションが苦手だから繋がることを避ける、といったことではない。「書く」活動そのものではない場面では積極的に他の方々と交流したいと思う。たとえば、TRPGのような本質的にコミュニティ的である(=継続的な友人を必要とする)遊びでは、むしろ積極的にコミュニティにコミットしたい(TRPGにはキャラクターシートなど「書く」側面もあるけれども、公表する性格のものではないのでOK)。また、私は校正の経験があり、このスキルは知り合いの方に限るが必要に応じて提供したいと思っている。

一人で考えたり書いたりするというのは思考がドツボに嵌まるリスクが飛躍的に高まる、基本的にはよろしくないことであって、他人に勧められることではない。「書き物にかんする」を超えて、本当に孤立してしまわないよううまくやっていく必要がある。

(以上追記。同趣旨の内容を個人サイトに行動規範として示した。)

(2022/8/20追記)この記事を読む方の多くは、「無断と土」紹介記事からリンクを辿って来られた方だと思います。

紹介記事には、ひとつ悔いが残っている。「Overall — 10/10」とか恥ずかしいこと今なら書かないと思う……がそれではなくて(しかし関連はする)、特集に関して悪いと思ったことを悪いと言わなかったという悔いである。作者の方々にも認知されたことによって、一作だけ熱狂的に推薦しながら別のところにネガティブな言及をすることで、当該作者の方々に迷惑をかけてはいけないといった考えが生まれたのだが、これは間違っていた。紹介記事では結局、特集名には書誌情報として触れるにとどめ、距離感を出そうとする逃避的な方針をとった。間違っていた。

2021年12月、樋口恭介氏が恥ずべきツイートやnote記事を発表した出来事のあと、振り返り記事を書いたが、ここでも間接的言及しかしなかった。だがやはり書くべきなのだろう。悪いことが起きてからネガティブな言及を後出しするのは卑怯で恥ずべきことなのだが、今後の行動に生かさなければならない、ので書く。

樋口氏に対しては、粘着的に気にしていたとかではないが、たまに思うところがあった。とくに一時Twitterの自己紹介欄に「翻訳家」と掲げ、Webで発表していらっしゃった翻訳記事を読んで、もう少しちゃんとやってほしいと思ったことがあった。それらも取り下げられた今公正ではないと思うので詳述しない。ツイートは(他の小説家・編集者等個人アカウントのほぼ全てと同様)フォローしないし見ないようにしていた。

それで〈異常論文特集〉についてだが発売前、樋口氏による巻頭言(の前半部)が表紙に印刷された『S-Fマガジン』2021年6月号の書影が発表されたときは、その文のナンセンスさ・それを表紙に掲げる編集部も含めた厚顔無恥に、文字通り「臓腑に来る」経験をした。3日ほど身体的に苦しんだ。耐え難かった。特集じたいスルーしたかったが前年、『文学ムック ことばと』vol.1(書肆侃侃房、2020年4月)に変わった小説を寄せていた作者の共著短編だけは読もうと思った。そしたらまあなんたることよ……素晴らしかった。「大変な傑作である」という前書きに誘導されたわけではない。それにしても、新作発表の場で編者がそんな前書き書くか普通? 「なるほどこれだけの傑作を手の内に持っていたら高揚するのは当然で、こうした前書きによる特別扱いも、発売前のいささか大袈裟と思われる宣伝ツイートも理解できる」とか思うだろうか? 私は思わないしそうやって「作品の力」で編者の放埒を正当化するのは他ならぬ作者の方々に失礼なことだ。ともあれ作品には感銘を受けたので称賛するとともに、上述の耐え難さを表明せず、黙っていることにした。

間違っていた。

その後、オンラインイベント「SF/ホラーの先に何があるのか?」(toi books、2021年10月31日)を視聴して思ったのは、樋口氏が英語圏の「セオリーフィクション theory-fiction」を念頭に置きながら日本製のそれにとどまらないようなものを「異常論文」という新たな名前で構想したのであれば、その企図は率直に、公的に残る形で表明されるべきだったということだ(巻頭言にUrban Dictionary等から非明示的な引用を組み込むだけでは、文脈を明かしたことにならない)。コンセプトを明確に示すことではじめて、人選の根拠などについても応答可能となる。特集に「セオリーフィクションの動向」みたいな批評記事を組み込むこともできたし、それが書ける寄稿者もいらっしゃったと思う。だがそうはならなかった。提示されたのは、あのナンセンスな、あたかも「異常論文」という言葉を、提案するのではなくすでにあるものかのように見せかける巻頭言だった。コンセプトへの導入はなかった。そこにあったのは文脈なきキャッチフレーズと概念の神秘化であった。なるほど「セオリーフィクション」自体がすでにキャッチフレーズなのかもしれないが、それならそこから説明すべきであった。巻頭言については今読み直しても、嫌悪感で平静ではいられなくなる。読者を馬鹿にしていると感じる。思想的テクストというものをどういうものと思っているのだろうかと思う。しかし今からこんなことを言ってもただ私が卑怯なだけで、説得力もないし何にもならない。

あとこのイベントでは樋口氏が、本業の業務ではない、という意味だと思うが、雑誌特集の編集を「私的な活動」と表現していらっしゃったのにも違和感があった。こうした姿勢が2021年12月の、日本のSF界ここ7年で最悪のように思われ、今後長く尾を引くかもしれない出来事を生んだ。違和感を飲み込んではいけなかったのだ。今後は、変だと思うことがあったらあまり酷いことになる前に表明していきたい。

(以上追記。↓が2021年6月当時に動機を書いた文章です)

少し前のことになるが、『S-Fマガジン』2021年6月号(早川書房)に掲載された鈴木一平+山本浩貴(いぬのせなか座)「無断と土」を読んで、私の読書歴、ってざっくりここ12年くらいだが、そのなかで数回しか経験したことがないほどの強い感銘を受けた。前回は昨年、瀬戸夏子氏の仕事に触れたときなので、わりと短スパンで来たといえば来た。「無断と土」に関しては、魂レベルのフィット感に脳汁ドバドバという感じで、そのまま20回以上読んで知人に薦めまくり友人にも読ませて通話し、議論を交わした。ギャーギャー推しまくる私と慎重な友人との間に温度差が生まれたが、私はあくまでも凄いと思います。

それで5月の頭に別のところでも凄い凄いと話したところ、ある方がどうも紹介記事がないと読む気が起きない(難解すぎて、これナンセンスなんじゃないの? という疑念がある)とおっしゃったので、じゃあ私が書きますよ! と言っていたのに書きさしのまま元気を失い、5月は過ぎ去った。さすがに8月号が出る前には紹介記事をアップしたい。

その準備のため『いぬのせなか座』1号(いぬのせなか座(同人誌)、2015年)を取り寄せて、山本氏(「h」氏とユニット「山本浩貴+h」を構成している)の関心のありかや「いぬのせなか座」というコレクティブが目指すところを掴もうとしていたところ、巻頭座談会に柴崎友香『ビリジアン』が当時20歳の山本氏にもたらしたインパクトについて書いてあったので、これは読まねばとなっているところだ。(たぶん次回のお題になる。)

『ペルディード・ストリート・ステーション』を読んだ。薦めてくださった方の言う通り傑作であった。Bas-Lagシリーズの第1作であり、原書で25万語くらいある(300語×ページ数、とかによるかなり大まかな概算です)。今までに出ている続編The Scar (2002)とIron Council (2004)もまた、いずれも20万語前後ある長大な作品。こちらは人の手もお借りしながら、原書で読んでいくつもりだ。ミエヴィル作品の英語はちょっと見ただけでも魅力的だが、圧縮的で含意を汲み取るのが難しそうだ。その成果も何らかの形でブログに書けたらなと思う。以下、短評。

チャイナ・ミエヴィル、日暮雅通(訳)『ペルディード・ストリート・ステーション』

早川書房〈プラチナ・ファンタジイ〉、2009年。原著(英語):China Miéville, Perdido Street Station. London: Pan Books (Pan Macmillan), 2011. (初版2000年)

ニュー・クロブゾンという都市に住む異種同士の恋人であるアイザックリンが、おのおの魅力的な依頼を受けることから物語は始まる。依頼者のひとりヤガレクの罪をめぐる謎に影を落とされながらも、二人が依頼を完遂し、おのれの探究心を満足させるサクセス・ストーリーがまずは予感される。記者のダーカンら、サブキャラクターたちを登場させながら描き出されるのは、さまざまな種族を擁し魔術的な知が生活に根付く一方、差別や貧困といった矛盾を含んだ社会である。そうした矛盾のありようが街に住む者たちの目線の高さから細密に記述されるのだ。そこで構築される都市空間に、日暮氏のなめらかな訳文にも助けられて読者は身を預けることができる。

と思っているうちに、何者か(伏せます)が物語にいわば「斜めから」入りこんでくることで文字通り(でもないが)鳥瞰的な視点が導入され、まさにその瞬間、ニュー・クロブゾンはペルディード・ストリート駅を心臓部とするひとつの有機的な生態系としての相貌をあらわにする。この転換とともに、登場する事物は格段に禍々しさを増し、すでに登場していた人物たちも、危機的状況に身を投じていくなかで別の姿を見せる。こうした、物語に斜めから着水してくる要素たちが、水面を跳ねる石のように軽快な因果をとりどりに経て、思いのほか重大な帰結を招くプロット上の技巧が見所のひとつである。

科学者であるアイザックは中盤、ある実験を成功させるが、それは侵入者によって危機に見舞われた都市がたどる運命に重なる。それは同時に、「侵入」の前後でスタイルを変える良い意味でストレスフルなこの小説そのものの寓意ともなりえるだろう。舞台が街の深奥へと移り、その空間的限界を探るとともに、そのある意味で「外部」に住まい、人間たちとは精神構造を異にする存在をいかに描くかという小説表現のリミットが探求されもする。また登場人物たちは次第に抜き差しならぬ極限的状況に陥り、愚かな選択をし、罪を犯す。そこから帰結する恐ろしい事柄はすべて無慈悲なまでに克明に、正確かつリーダブルなアクションによって描写され、しばしば加害者にもなる登場人物、そして読者に傷を残していく。そんなことをされれば人は壊れてしまうし、実際壊れてしまうのだ。そうした種々の「危機」からこの小説の膨大なエネルギーは取り出されている。

Style - 8/10
Idea - 10/10
Character - 9/10
Structure - 8/10

Overall - 9/10

10段階評価をつけてみた。
・Style→その作品が目指していると思われる文体が実現されているか。散文としての評価。
・Idea→いわゆる「内容」。特にSFやミステリ読むときには致命的なのだが私は「アイディア読み」が苦手なので、意識的に努力していきたいところ。
・Character→登場人物に関して、その作品で目指していると思われるパーソナリティ、外見等の造形ができているか。私の「人間」観を押し付けるものではない。また、「登場人物」は小説にとって必須ではないため、項目として設けないかもしれない。
・Structure→構成面の均整、破格などがうまくいっているか。プロットとか、登場人物配置とか、長い描写をここぞ! で入れられるかとか。

いずれにせよ、作品がやろうとしている通りに実現しているか、という基準になる。だから私の方は、作品が何をやろうとしているのかを掴めるような、「作品を読むに値する読者」にならなければならない。

あとは語学に関して書く。

ポーランド語

副詞をのぞく不変化詞231個を頭に詰め込んだ。出典は石井哲士朗『明解ポーランド語文法』(白水社、2015年)第2部の7~10。副詞はCollins Easy Learning Polish Dictionary. Second edition. Glasgow: HarperCollins Publishers, 2013(前半部分が、7000項目くらいの小さなポーランド語-英語辞典。最終的にこれをすべて覚えたい)から採取して暗記カードを作る作業中。

こんな感じで、毎週1回、短い批評(という語を表面的に避けても無駄だ)を1個は含む近況報告を書いていければと思う。■

--

--

misora100

Full-time yuri aficionado & language enthusiast(でありたい). 1992, he/him. JP/EN. https://misora100.github.io/